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イブン・アン=ナディーム : ウィキペディア日本語版
イブン・ナディーム

イブン・アン=ナディーム(, )は、10世紀シーア派ムスリムの学者・伝記作家。本来なら「アン=ナディーム」のシュフラだけで呼ばれるところ、ナサブがついて呼ばれている〔。ヒジュラ暦320(西暦932)年頃バグダードで生まれ、995年又は998年9月17日に死去。『目録の書』(
',', フィフリスト)の著者として有名。フィフリスト(pehrest/fehrest/fehres/fahrasat)という珍しいペルシア語を著作の題名として用いたことから、多くの学者にペルシア人だと考えられている〔が、確証はない〔。
,', フィフリスト)の著者として有名。フィフリスト(pehrest/fehrest/fehres/fahrasat)という珍しいペルシア語を著作の題名として用いたことから、多くの学者にペルシア人だと考えられている〔が、確証はない〔。
, フィフリスト)の著者として有名。フィフリスト(pehrest/fehrest/fehres/fahrasat)という珍しいペルシア語を著作の題名として用いたことから、多くの学者にペルシア人だと考えられている〔が、確証はない〔。

==生涯==
イブン・アン=ナディームその人について知られていることは極めて少ない。少なくとも父の代から大きな書店を経営しており、アラビア語写本を作成して販売していた。父子共に著名で社会的地位の高い人物であった〔。バグダードに住んでいたが、時々モスルの有力者ナーセル・アッ=ダウラ (ヒジュラ暦358/西暦968年没)の邸宅に呼ばれて滞在している。なお、『目録の書』が編集された年である988年に、字義通り訳すと「ローマ人の地 "" にいる」と書いており、この記述をコンスタンティノープル(当時中東イスラーム世界からその名で呼ばれていた)にいるという意味に解釈する説〔があったが、単にバグダード在住のキリスト教徒の隣人の家にいるという意味であろう〔。
イブン・アン=ナディーム父子の書店は、多くの学者、詩人、文化人の出合いの場所だったようである〔。のちの『目録の書』に結実する深い教養は、高い文化度を誇ったバグダード社会を背景にしていた〔。イブン・アン=ナディームが実家の書店で交流し、直接知っていることを教わった人の名前としては、次のような名前を挙げている。文法学者のアブー・サイード・アル=シーラーフィー(978-9年没)、詩人のアリー・ブン・ハールーン・ムナッジン(963年没)、シリア正教会のキリスト教徒哲学者ヤフヤー・ブン・アディー、文学史家アブー・ウバイドゥッラー・マルズバーニーなど〔。とりわけ、哲学者のアブー・スライマーン・ムハンマド・ブン・バフラーム・マンティーキー・シジスターニー()とも親しく交わり、「先生」と呼んだ〔。また、イブン・アル=ハンマールの別名でも知られるハッサン・ブン・ソワールは、シリア語の哲学書をアラビア語に翻訳した翻訳者・論理学者であるが、キリスト教徒であった〔。さらに、アッ=ジャッラ一族のアリー・ブン・イーサーという「善良なる高官()」という通り名で知られるギリシア、ペルシア、インドの学問に深く通じた学者の家にも出入りしていた。このように、イブン・アン=ナディームの交流関係は、主流派であるスンニ派ではない人々をとの交流を多く含み、彼はイスラーム以前のギリシアインドの科学を、その深い洞察と寛容な気風から尊重するようになった。特にアリストテレスの哲学を尊んだ。
なお、「アン=ナディーム(the companion,友達)」というあだ名は、というアッバース朝の宮廷音楽家との家族的なつながりがあることを示すという説もあるが〔、疑わしく、アッ=ジャッラ一族のアリー・ブン・イーサーの息子、イーサーと仲が良かったことに由来するか、モスルの有力者ナーセル・アッ=ダウラ (ヒジュラ暦358/西暦968年没)と仲が良かったことに由来すると考えられている〔。
イブン・アン=ナディームはまた、強いシーア派の信仰を持っていた。著作の中で、彼は「シーア」と呼ばず ''khassi'' と呼んだ。また、「スンニ」の代わりに ammi'' と呼んだ。原義通り訳せば「伝統の民」となる「アハル・ル=スンニ(スンニ派)」について言及するときは、「ハディースの民」と言った。また、普通は預言者ムハンマドに対してだけ、名前の後ろに付加して用いる「彼の上に平安あれ」というユーロジーを、シーア派イマームとムハンマドの直系子孫の名前の後ろにも付加した。さらに、第8代シーア派イマームのアリー・ムーサー・アッ=リダーをと呼んだ。
彼によると、ハールーン・アッラシードマアムーンカーディーとして仕えた歴史家もシーア派であったが、この事実はにより隠蔽されたという。また、正統派と呼んでよいのはザイド派であるとし、は「正義の民(''Ahl al-'Adl'')」、は、''al-mujbira''とした。サービア教徒の教義とは遠い考えを持っていたことと、彼らの歴史への関与に対して批判的であったことから、彼は特に、十二イマーム派に属していたと考えられる。また、あるシャーフィイー派法学者が隠れ十二イマーム派であったと言ったり、自分の知り合いの中にもシーア派がいると言ったりしたりしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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