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イブン・サウード : ウィキペディア日本語版
アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード(、1876年 - 1953年11月9日)は、ワッハーブ派イマーム(在位:1902年 - 1953年)、ヒジャーズ国王(在位:1926年1月8日 - 1931年)〔「世界歴代王朝王名総覧」(1998年、東洋書林)参照〕、ナジュド国王(在位:1927年 - 1931年)〔、ナジュド及びヒジャーズ国王(1931年 - 1932年)〔、初代サウジアラビア国王(在位:1932年 - 1953年)。アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード、またはイブン・サウードの名で知られる。ワッハーブ派イマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。
== 生涯 ==
アラビア中部のリヤド周辺にまで縮小し、且つのムハンマド・イブン・アブドゥッラーに実権を奪われていたサウード家の出身である。ワッハーブ派イマームである父が第二次サウード王国の実権を握っていたラシード家の勢力をリヤドから排除することに失敗し、1891年に一族とともに放浪した果てにクウェートに亡命。これにより、分裂して衰退していた第2次サウード王国は完全に滅亡する。
1901年、クウェートの大首長ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハジャバル・シャンマル王国のラシード家との戦いに参加し、別働隊としてリヤド攻略を担当するも、本隊の大敗により陥落することが出来なかった。
1902年、22歳〔正確な生年月日が不明のため年齢は推測であり、資料によっては21歳となっている物もある。〕のときに40人の兵力でマスマク城に居を構えていたアジュラーン総督を討ち取りリヤドを奪還した()。1914年から第一次世界大戦が始まると、連合国の1国であるイギリスに協力して力を蓄える。1919年にサウード家の勢力拡大が自身の独立に影響を与えると考え、ラシード家を影で支援していたクウェートのサリーム首長に業を煮やしたアブドゥルアズィーズはクウェートに侵攻するが、イギリスは空軍を派遣してけん制したために、彼はクウェート侵攻を諦めている。この様にイギリスはサウード家の勢力拡大に全面協力していたわけでなく、またサウード家を支援したのは専らイギリスでもジョン・フィルビーの所属したインド総督府であり、アラビアのロレンスが所属するイギリスのカイロ領事はハーシム家を支援していたが、アブドゥルアズィーズはイギリスとの戦力差をわきまえており、反抗することはなかった。1920年にはそのイギリスの支援を背景にして中部アラビアを支配下に置いた。
1921年にはラシード家を滅ぼし、1925年にはヒジャーズ王国をハーシム家より奪い、1927年にはイギリスとを結んでナジュド王国の独立を認めさせると共にイギリスとなおも友好関係を維持した。
1931年にはナジュド及びヒジャーズ王国の建国を宣言して、自らマリク(王)となり、翌1932年には、サウジアラビア王国と国名を変えている。
1939年に勃発した第二次世界大戦においては、常にイギリスやアメリカ合衆国などと同じく連合国側の一員として行動する。
大戦末期の1945年にはアラブ連盟に加盟する。1948年にはパレスチナ戦争が起こり、アブドゥルアズィーズもサウジ軍を派遣するが、国境を接しておらず、また米英との戦力差を熟知している故に米英のゴーサインが出ない紛争には介入しない方針だったために、パレスチナ問題にはあまり積極的ではなく、さらに自身同様にアラブ圏のリーダーを自認するエジプト王国シリア、宿敵のハーシム家のアブドゥッラー1世が君臨するヨルダン・ハシミテ王国やファイサル2世が君臨し、元ヒジャーズ王族のアブドゥルイラーフが摂政であるイラク王国と歩調が合うはずもなくアラブ連合軍は敗北し、アラブ圏に自由将校団を中心とするアラブ民族主義共和制派の台頭を招くことになる。
これより先の1924年にホームズ少佐にアル=ハサ地方の石油利権を与え、1928年の赤線協定が施行され、1933年にホームズ少佐からガルフ石油に移行した石油利権がカルフォニア=アラビアン・スタンダード石油に移って以降、アメリカ合衆国との関係が深まり、1938年にはアラムコにより、サウジアラビア初の油田が発見され、メッカ・メディナの2大聖地巡礼に代わる財源を確保。パレスチナ戦争後はアメリカ合衆国との協調関係がさらに進み、アメリカ合衆国から新鋭機械を導入するなどして自国内の油田開発に当たった。
宗教においても自身がイマームを勤めるワッハーブ派イスラム教(最も厳正で復古主義的)を国教として定めるなどして、サウジアラビア王国の基礎を築き上げた。
1953年11月9日、狭心症により77歳で死去した。500リヤル紙幣に肖像が使用されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ibn Saud 」があります。



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