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イブン・ジュバイル(、 Ibn Jubayr、 1145年9月1日 - 1217年11月29日)は、12世紀から13世紀にかけて活躍したムスリムの旅行家。 1183年から1185年にかけてのメッカ巡礼の旅行記『イブン・ジュバイルの旅行記(旅路での出来事に関する情報覚書、rihla Ibn Jubayr)』は巡礼の紀行として優れたものとみなされ、イブン・バットゥータの旅行記を記述したら多くの人間が旅行記の記述を借用した〔ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』、7-8頁〕。後世の著述家は、イブン・ジュバイルの旅行記を紀行文の手本とした〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、4頁〕〔飯森「イブン・ジュバイル」『新イスラム事典』、120頁〕〔竹田「イブン・ジュバイル」『岩波イスラーム辞典』、159頁〕。旅行記には巡礼の儀式とその意義について解説されており、巡礼を志すムスリムにとっての指南書としても優れている〔ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』、5頁〕。優れた紀行文としてのみならず、当時の十字軍〔、ノルマン朝(オートヴィル朝)統治下のシチリア史についての状況を知る貴重な史料としても評価されている〔〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、18頁〕。〔清水「イブン・ジュバイル」『アジア歴史事典』1巻、203頁〕。 == 生涯 == 祖先はメッカ近辺に居住するキナーナ族の出身であり、740年にウマイヤ朝が実施したイベリア半島での反乱の鎮圧に従軍した後、一族はイベリア半島に居住したと伝えられている〔ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』、3頁〕。 1145年、スペインの都市バレンシアで生まれた〔〔〔。で学問を修め、父とウラマー(イスラーム世界の知識人・学者)からイスラームの諸学とアラビア語の諸学を教わった〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、6頁〕。その後ムワッヒド朝の建国者アブドゥルムウミンの息子の一人である、グラナダ太守アブー・サイードに書記として仕える〔。 14世紀のナスル朝の歴史家・政治家のイブン・アル=ハティーブはイブン・ジュバイルがメッカ巡礼を決意した理由について、自著『グラナダ情報の心得』で以下のような事情を伝えている〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、6-7頁〕。ある時アブー・サイードは敬虔なムスリムであるイブン・ジュバイルに7杯の酒を飲むことを強制し、イブン・ジュバイルは命令を断ることができず、酒を飲み干してしまった。アブー・サイードは自分の行いに後悔し、杯をディナール金貨で満たし、イブン・ジュバイルの衣服の胸元に7回金貨を注ぎ込んだ。不本意にも禁酒の戒律を破ったイブン・ジュバイルは罪を償うため、メッカ巡礼を決意したとイブン・アル=ハティーブは記している。また、イブン・ジュバイルの旅行が許可された背景には、東方のイスラーム世界の情報収集が任務として与えられていたとも推測されている〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、33頁〕。 アブー・サイードから受け取った金貨を元手として、1183年2月3日にイブン・ジュバイルは友人の医師イブン・ハッサーン(アブー・ジャウハル)と共にメッカ巡礼に発った〔ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』、4頁〕〔家島『イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータ』、7頁〕。 2年あまりの旅の末、1185年4月25日にグラナダに帰国した〔ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』、7頁〕。 1189年から1191年にわたって、2度目のメッカ巡礼を行ったが、この時の旅行記は残していない〔。1217年に3度目の旅行に出発し、道中でアレクサンドリアに留まって教鞭を執り、1217年11月29日にこの地で没した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イブン・ジュバイル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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