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イブン・タイミーヤ(アラビア語 تقي الدين أبو العباس أحمد بن عبد الحليم بن عبد السلام بن عبد الله ابن تيمية، Taqī al-Dīn Abū al-‘Abbās Ahmad b. Abd al-Halīm b. ‘Abd al-Islām b. ‘Abd Allāh Ibn Taymīya、1258年〔中田「イブン・タイミーヤ」『岩波イスラーム辞典』、160頁〕/63年〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、1頁〕〔岡崎「イブン・タイミーヤ」『アジア歴史事典』1巻、203頁〕 - 1328年)は、中世シリアのハンバル派イスラム法学者、哲学者。 == 生涯 == シリア北部のハッラーンで生まれる。ハンバル派の法学者の一族の一員として生まれ、幼少期から学問に励んだ〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、7頁〕。モンゴル軍がハッラーンに侵攻する噂が広まるとイブン・タイミーヤの一族は町を離れ、1267年にダマスカスに移住する〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、8頁〕。 父アブド・アル=ハリームを師としてイスラーム法学(シャリーア)、ハディース学を修めたタイミーヤは若くして頭角をあらわし、17歳にしてファトワーを出すことができるようになった〔。1284年に父が没すると、タイミーヤは跡を継いでダマスカスのスッカリーヤ・マドラサで教鞭を執った。翌1285年には、ウマイヤド・モスクでクルアーン解釈の講義を開く。 若くして地位を得たイブン・タイミーヤは周囲から嫉妬されることが多く、彼自身の攻撃的な性格とも相まって、多くの学者と対立した〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、9頁〕。1294年にイブン・タイミーヤは預言者ムハンマドを侮辱したとあるキリスト教徒を弾劾したが、逆に彼が周囲から非難され、捕らえられて鞭で打たれた。1299年にあるハナフィー派の学者から、イブン・タイミーヤの神の議論は擬人神観にあたると訴えられたが、逆にイブン・タイミーヤは相手を論破し、世間に学識と信念の強さを知らしめる〔。 1299年にマムルーク朝の軍隊を破ったモンゴル系国家イルハン朝(フレグ・ウルス)の軍がダマスカスに迫ると、イブン・タイミーヤは使節団を組織して遠征軍の総司令官であるガザン・ハンとの交渉に向かった。同行した人間の不安をよそに、交渉の場でもイブン・タイミーヤは辛辣な物言いをしたと伝えられている〔。モンゴル軍がダマスカスを占領した後、イブン・タイミーヤは捕虜の解放にあたる。 モンゴル軍がダマスカスから退却した後、イブン・タイミーヤはモンゴル軍がシリアに侵入するたびにダマスカスのモスクの説教壇に立ち、兵士と民衆を鼓舞した。1302年のラマダーン月にシリアにモンゴル軍が侵入した時にはイブン・タイミーヤも剣を手に取って戦い、「断食をするよりも食事を摂ってモンゴルと戦う方がより神意にかなっている」旨のファトワーを出した〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、10頁〕。 モンゴルの攻撃が沈静化した後、イブン・タイミーヤは神秘主義者(スーフィー)に論戦を挑み、1305年ごろには信仰の対象となっていた聖石を叩き割った〔。神と人間の関係を論じて、イブン・タイミーヤがスーフィーの存在同一説を攻撃すると、スーフィーたちはイブン・タイミーヤを神人同型論者として批判した〔。論争相手のスーフィーの中には権力者とつながりのある者もおり、そのために1305年にカイロで投獄される〔。1307年に一時的に釈放されたが、再度投獄される。1309年にイブン・タイミーヤはマムルーク朝のスルターンに復位したナースィル・ムハンマドによって釈放され、顧問官として迎えられたイブン・タイミーヤはカイロで落ち着いた生活を送った〔湯川、中田『シャリーアによる統治』、11頁〕。 やがてイブン・タイミーヤの関心はシャリーアに向かい、様々な問題に対して独自の見解によるファトワーを発した〔。1318年、同じハンバル派の大法官から派の公式見解と異なるファトワーを出すことを控えるよう要請される〔。最初イブン・タイミーヤは注意に従っていたが、しばらくしてファトワーを出し始め、1320年にナースィル・ムハンマドの命令によって半年間投獄される。1326年にイブン・タイミーヤの政敵たちは彼が過去に出した聖者廟参拝を禁じるファトワーを曲解して取り上げ、攻撃を加えた〔。イブン・タイミーヤへの批判はナースィル・ムハンマドの耳にも入り、イブン・タイミーヤはダマスカスに監禁される。投獄されたイブン・タイミーヤは書物、紙、インクを手にすることを許されず、1328年に獄死した〔。 イブン・タイミーヤの著書はクルアーン学、クルアーン解釈学(タフスィール学)、ハディース学、シャリーア(イスラーム法学)、法源学、神学批判など多岐にわたる。著書の数は500以上あると考えられている〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イブン・タイミーヤ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ibn Taymiyyah 」があります。 スポンサード リンク
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