翻訳と辞書
Words near each other
・ イボ・ヨシポビッチ
・ イボール・ミコルチェビッチ
・ イボ人
・ イボ島
・ イボ族
・ イボ語
・ イボ高
・ イボ高ラバー
・ イポカンポ出版
・ イポカンポ出版社
イポクラス
・ イポス
・ イポタネス
・ イポメア
・ イポリット・オギュスト・マリノニ
・ イポリット・シャルル
・ イポリット・ジラルド
・ イポリット・テーヌ
・ イポリット・マリノニ
・ イポリテ・オギュスト・マリノニ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

イポクラス : ウィキペディア日本語版
ヒポクラテス

ヒポクラテス(ヒッポクラテース、古代ギリシア語: 、 , 紀元前460年ごろ - 紀元前370年ごろ)は古代ギリシア医者
エーゲ海に面したイオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシア各地を遍歴したと言い伝えられるが、その生涯について詳しいことは分かっていない。ヒポクラテスの名を冠した『ヒポクラテス全集』が今日まで伝わるが、その編纂はヒポクラテスの死後100年以上経ってからとされ、内容もヒポクラテス派(コス派)の他、ライバル関係であったクニドス派の著作や、ヒポクラテスの以後の著作も多く含まれると見られている。
ヒポクラテス(或いはヒポクラテス派)の最も重要な功績のひとつに、医学を原始的な迷信呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させたことが挙げられる。さらに医師の倫理性と客観性について『誓い』と題した文章が全集に収められ、現在でも『ヒポクラテスの誓い』として受け継がれている。
人生は短く、術のみちは長い と言う有名な言葉もヒポクラテスのものとされており、これは「ars longa, vita brevis アルスロンガ、ウィータブレウィス」というラテン語訳で現代でも広く知られている。病気は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという四体液説を唱えた。また人間のおかれた環境(自然環境、政治的環境)が健康に及ぼす影響についても先駆的な著作をのこしている。
これらヒポクラテスの功績は古代ローマの医学者ガレノスを経て後の西洋医学に大きな影響を与えたことから、ヒポクラテスは「医学の父」、「医聖」、「疫学の祖」などと呼ばれる。
== 生涯 ==

ヒポクラテスが紀元前460年頃にギリシャコス島で生まれた実在の人物であること、また生前から医者としても医学の指導者としても著名な人物であったことは多くの歴史家が認めるところであるが、その他に伝えられる伝記の類は資料の裏付けのないものが多く、おそらく史実ではない〔 〕。(詳細は逸話の節を参照のこと。)
ヒポクラテスについての記述は、紀元前4世紀プラトンアリストテレスの著作〔『政治学』,1326a〕、10世紀スーダ辞典や、12世紀のの著作にも見られるが〔 〕〔 〕、初めてヒポクラテスの伝記を著したのは2世紀ギリシアの医者であり、このソラノスのヒポクラテス伝は今日でもヒポクラテスを知る上で最も重要な情報源である。ソラノスの伝記によると、ヒポクラテスの父親は医者のヘラクレイデス、母親はティザンの娘プラクシテラであるという。ヒポクラテスにはテッサロスとドラコンというの二人の息子がおり、娘婿のポリュボスと共にヒポクラテスの医学の弟子であった。古代ローマの医学者ガレノスによると、ポリュボスがヒポクラテスの真の後継者である。なお、テッサロスとドラコンにはそれぞれヒポクラテスという名前の息子がいたという。ソラノスはまた、ヒポクラテスは父親と祖父から医術を学び、他の学問をデモクリトスゴルギアスから学んだと記している。コス島のアスクレピオス神殿(診療所でもあった)で医術の訓練を積み、トラキアの医者、セリュンブリアのヘロディコスからも教えを受けていた可能性がある。なお同時代人でヒポクラテスについて触れた著作を遺したのはプラトンだけであり、対話篇プロタゴラス』(311B)と、『パイドロス』(270C-E)の2箇所にヒポクラテスに関する記述がある。『プロタゴラス』の記述は「アスクレピオス派の医者、コス島のヒポクラテス」とごく簡潔であるが、ヒポクラテスがプラトンと同じ時代に実在した人物であったことが窺える。
生年が紀元前460年とされることから、ヒポクラテスは『戦史』を著した歴史家トゥキディデスと同い年、また哲学者ソクラテスよりおよそ10歳年少で喜劇作家アリストパネスよりも15歳ほど年長であった。この時代はギリシア古典期にあたり、ペルシア戦争に勝利したアテナイは、ペリクレス紀元前444年から紀元前430年までアテナイの将軍職)のもと最盛期を迎え、哲学建築彫刻文学など数多くの分野で今日まで影響を及ぼす文化が生まれた。(この時代をペリクレス時代ともいう。)なおアテナイはペリクレスの死後ペロポネソス戦争を経てスパルタに覇権を奪われやがて衰退した。
ヒポクラテスは生涯医学を教え、自ら実践し、また遍歴医として少なくともテッサリアトラキア、さらに地中海黒海の間にある内海マルマラ海の辺りまで旅をし、テッサリア地方の中心都市ラリサで死去したといわれている〔〔小川 (1963),p.198〕。没年についてソラノスの伝記では90歳で死去したとあるが、著者不明のヒポクラテス伝記(ブリュッセル写本)およびツェツェスの伝記では104歳とあり、その他にも83歳等の説もあることから、正確な没年齢は不明である〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヒポクラテス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hippocrates 」があります。



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.