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メリナ王国とは、1540年ごろから1897年に現在のマダガスカルの大部分を支配していた王国である。 この王国はマダガスカル中央高原に住むメリナ人の王国であり、1540年に建国された。 18世紀末にはアンドゥリアナムプイニメリナ王が現れ、メリナ民族を統一し、さらにマダガスカルをも統一した。 しかし、19世紀初め頃から王国は衰退し、1883年にはフランスに保護権を認めた。 1895年にフランスは王宮の置かれていたアンタナナリヴを占領、1897年に女王ラナヴァルナ3世がレユニオン島に流されたことによってメリナ王国は滅亡した。 ==歴史== 1540年頃メリナ王国は建国された。まだこの頃は狭い領域を支配している小国であった。 17世紀初頭のマダガスカル中央高原にはペツィレゥ諸王国、東南部のアンテムル王国、などが乱立、これらの王国も狭い領域を支配している小国にすぎなかった。同じ頃、サカラバ族が島の西側半分を支配するに至るが19世紀に入ると衰退してしまった。 18世紀末、メリナ民族を統一したアンドゥリアナムプイニメリナ王が現れる。王はサカラバ族を退け、ベツィレゥ王国を征服し、19世紀のメリナ王国によるマダガスカルの広域支配の基盤を築いた。 19世紀初め、アンドゥリアナムプイニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継ぐ。彼は先進的な考え方の持ち主であり、国民の教育レベルを引き上げてヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに植民地化されてしまうという危惧を抱いていた。ラダマ1世は、モーリシャスのイギリス総督であったファーカーの援助を受け、軍隊をイギリス流に訓練した。さらに、奴隷貿易の廃止や学校の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導入など、近代化=欧化政策を進めた。しかし1828年、志半ばでラダマ1世は他界。ラダマ1世の第一夫人がラナヴァルナ1世として即位した。彼女は、ヨーロッパ敵視政策に切り替えた。1835年にキリスト教の布教を禁止した。 1861年に、ラナヴァルナI世が死去。その息子がラダマ2世として即位する。ラダマ2世は再びヨーロッパ化を推し進める政策へと変更した。しかしその政策が急であったため、欧化反対派により1863年に暗殺された。 ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位。1868年に、ラスヘリナが没すると、従妹がラナヴァルナ2世として即位する。彼女は行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退していった。 このようにメリナ王国が衰退を続けると、イギリスは王国の衰退を察して植民地化の野心を向け始めた。これを察したフランスはそれに先んじるため1883年に、タマタブを占領した。 1883年に、ラナヴァルナ2世が没すると、その従妹がラナヴァルナ3世として即位した。1890年に、メリナ王国の保護権をフランスに認める。一方で、イギリスに接近して軍隊の再整備を進めた。1894年にフランスは最後通牒を突きつけて、1895年メリナの王宮の置かれていたアンタナナリヴを占領する。 1896年8月6日、フランス政府は正式にマダガスカルを植民地としたことを宣言した。 そして、1897年ラナヴァルナ3世をレユニオン島に流したことによってメリナ王国は完全に滅ぼされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「メリナ王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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