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イライザ・タルカット(、1836年5月22日 - 1911年11月1日)は、明治の日本で活動した宣教師・教育者。アメリカ合衆国コネチカット州ヴァノン出身。神戸女学院大学の前身である「神戸ホーム」を設立した。 == 経歴 == 1836年5月22日、アメリカ合衆国コネチカット州ヴァノンの紡績工場経営者の家に生まれる。両親ともに熱心なプロテスタントであった。コネチカット州ファーミントンの女学校を卒業後、ニューブリテン州立師範学校に入学。1857年に同校を卒業後教師となり、6年間にわたり教鞭をとった。その後教師を辞め、約10年間にわたり叔母の看病に当たった。叔母は国外伝道に関心を抱いており、感化されたタルカットは1872年、アメリカン・ボードが行った、日本の神戸で女子教育にあたる女性宣教師の募集に名乗りを上げた〔谷口1986、106-109頁。〕。 1873年3月、タルカットはジュリア・ダッドレーとともに神戸に赴任。伝道活動を行う傍ら、同年9月にダッドレーとともに民家(花隈村、のちに北長狭)を借り、「24人の少女と婦人のための学校」と呼ばれる学校を開設。同校は兵庫県初の女学校であった〔谷口1986、110頁。〕。1875年、旧三田藩主九鬼隆義らの支援を受け、ダッドレーとともに諏訪山の麓に女学校「神戸ホーム」(後の神戸英和女学校、神戸女学院大学)を設立。しばらく同校で教鞭をとったが1880年に職を辞し、岡山を拠点に中国地方・四国地方を巡る伝道の旅に出た〔竹中2000、54・89頁。〕。 その中、中国地方鳥取県の鳥取市には長期滞在し、鳥取教会を拠点に活動し、1887年に鳥取英和女学校を設立した。同じく、アメリカン・ボードの宣教師ジョージ・ローランドも協力するが、女学校は財政難で15年で閉校する。〔守部2009、143頁。〕 1895年に日清戦争が勃発すると広島で傷病兵の看護にあたった。天然痘やコレラに感染した者の看病にもあたったがその結果自身もコレラに感染し、治療のため1896年に一時帰国〔谷口1986、113頁。〕。ハワイでの伝道を経て1902年に再び来日し、1880年にダッドレーが設立した神戸女子伝道学校(後の聖和大学〔2009年4月1日に学校法人関西学院と合併()。〕)で教鞭をとりつつ伝道を行う日々を送った〔竹中2000、89-90・113頁。〕。1911年11月1日に死去。神戸女学院大学では毎年、創立者記念日のある5月に神戸市立外国人墓地において墓前礼拝を行っている〔谷口1986、103頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イライザ・タルカット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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