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イリノイ方面作戦(イリノイほうめんさくせん、)は、アメリカ独立戦争の1778年から1779年にかけて、ジョージ・ロジャース・クラークが率いたバージニアの小さな民兵隊が、現在のアメリカ合衆国中西部にあったイリノイ地方のイギリス軍基地数カ所を占領した作戦行動である。この作戦はアメリカ独立戦争の西部戦線では最もよく知られた軍事行動となり、クラークの初期アメリカ軍人の英雄としての評判を確立させることになった。 1778年7月、クラーク隊はケンタッキーからオハイオ川を越え、イギリス領土にあったカスカスキア、ビンセンズなど幾つかの集落を占領した。この占領は、フランス語を話す人々とインディアンの大半がイギリス帝国のために武器を取ることを好まなかったために、一発の銃弾も放たれずに成し遂げられた。このクラーク隊の侵入に対して、デトロイト砦のイギリス副総督ヘンリー・ハミルトンは、小部隊でビンセンズを再占領した。1779年2月、冬季にも拘わらずクラーク隊がビンセンズを急襲して町を占領し、その過程でハミルトンを捉えた。バージニアはその地域をイリノイ郡として創設することで、クラークの成功を不動のものにした。 イリノイ方面作戦の重要性についてはその後多くの議論の対象となってきた。イギリスは1783年のパリ条約で北西部領土全体をアメリカ合衆国に譲渡したので、戦中にイリノイ地方を支配することで、当初の13植民地の領土を2倍近くにしたクラークの功績を認める歴史家がいる。このことでクラークは「北西部の征服者」と呼ばれ、その作戦、特に冬季のビンセンズ急襲が大いに祝福され、美化されてきた。別の歴史家は、クラークの「征服」が一時的な占領であり、イギリスとの領土交渉には影響しなかったと言って、この作戦の重要性を評価していない。 == 背景 == イリノイ地方の定義は現在のインディアナ州とイリノイ州の大半を含むとされるが、曖昧である。フレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)が終わるまでは、ヌーベルフランスのルイジアナ地区に属しており、1763年のパリ条約でフランスはこの地域の主権をイギリスに渡した。1774年のケベック法でイギリスは、新たに拡張されたケベック植民地の中にこのイリノイ地方を含めた。 1778年時点、イリノイ地方の人口は、ヨーロッパ系の子孫1,000人(大半がフランス語を話した)、と約600人のアフリカ系アメリカ人奴隷だった〔James, ''George Rogers Clark'', 69.〕。数多いインディアンがミシシッピ川、イリノイ川、ウォバッシュ川沿いに集中する集落に住んでいた。イギリス軍の駐屯兵は僅かであり、その大半は1776年に費用を削減するため引き揚げられていた。フランス生まれの軍人で役人のフィリップ=フランソワ・ド・ラステル・ド・ロシェブラーブがイギリス軍に雇用され、地方指揮官になった。ロシェブラーブはカスカスキアに駐屯し、デトロイトにいるハミルトンに報告書を送っていたが、度々その地域を管理するために必要な金、資源、兵士が足りないと苦情を申し立てていた〔James, ''George Rogers Clark'', 109–12.〕。 1775年にアメリカ独立戦争が始まったとき、オハイオ川がイリノイ地方とケンタッキーの境であり、ケンタッキーにはその近年にアメリカ人開拓者が入植していた。イギリスは当初、インディアンを戦争の局外に置こうとしていたが、1777年、副総督のハミルトンは、インディアン戦士隊を徴募して武装させ、ケンタッキーの開拓地を襲撃させ、反乱植民地との戦争で西部戦線を開くよう指示を受けた。歴史家のバーナード・シーハンは「1776年から、西部開拓地の前線は常に、デトロイトを起点にする白人指導のインディアン襲撃隊による攻撃に曝されていた」と記している〔Sheehan, "Famous Hair Buyer General", 10.〕。 1777年、ジョージ・ロジャース・クラークはバージニアに属するケンタッキー郡民兵隊で、24歳の少佐になっていた。クラークは、イリノイ地方のイギリス軍基地を捕獲し、続いてデトロイトに向けて進軍することで、ケンタッキーに対する襲撃を終わらせることができると考えた。1777年4月、クラークは2人のスパイをイリノイ地方に送り込んだ〔James, ''George Rogers Clark'', 69; Butterfield, ''History of Clark's Conquest'', 547.〕。この2人は2か月後に戻り、カスカスキアの砦は守りが無いこと、フランス語を話す住民は概してイギリスに対する忠誠心がないこと、誰もケンタッキーから攻撃があるとは予測していないことを報告した。クラークはバージニア知事のパトリック・ヘンリーに宛てて、カスカスキア占領のための作戦を伝えた〔James, ''George Rogers Clark'', 112.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イリノイ方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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