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イリヤ・オストログスキ : ウィキペディア日本語版 | イリヤ・オストログスキ
イリヤ・アレクサンデル・コンスタンティノヴィチ・オストログスキ(; ,1510年 - 1539年8月15日)は、リトアニアのルーシ系の大貴族。ブラツラフ、ヴィーンヌィツャの代官を務めた。 1523年、父コンスタンティは13歳の息子イリヤの妻にイェジ・ラジヴィウの娘アンナ・エルジュビェタを迎えることを決めた。しかしイリヤの許嫁はアンナの妹バルバラに変えられ、最後にはイリヤがベアタ・コシチェレツカと恋に落ちたため、ラジヴィウ家との縁組は王の認可のもとに解消された。ベアタは、表向きは国王ジグムント1世の愛妾カタジナ・テルニチャンカと夫アンジェイ・コシチェレツキとの間に生まれた娘だが、実の父親は国王ジグムント1世本人だったと言われる。 1539年、王女イザベラがハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュと結婚式を挙げた翌日、イリヤはベアタとヴァヴェルで結婚した。この結婚にさいし、イリヤは一族が伝統的に信仰してきた正教から、カトリックに改宗している。結婚式は贅を尽くした豪華なものであり、式次第に則って開かれた馬上槍試合では、花婿イリヤは皇太子ジグムント・アウグストと対戦するという栄誉にあずかった。ところがイリヤは落馬して試合に負けてしまい、打ちどころが悪く体は半年も持たなかった。彼は同年の8月15日、この試合で受けた怪我のために没した。結婚してすぐに未亡人となったベアタは、夫の死後に一人娘エルジュビェタを出産した。イリヤの遺言によって、エルジュビェタは皇太子ジグムント・アウグストを後見人とした。 == 参考文献 ==
* L.ヴォイトヴィチ. 『東欧の公朝(9世紀末 - 16世紀初頭)』リヴィウ, 2002.
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