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イルデフォンス・サルダー・イ・スニェーまたはイルデフォンソ・セルダー(カタルーニャ語:Ildefons Cerdà i Sunyer、スペイン語:Ildefonso Cerdá Suñer、1815年12月23日 - 1876年8月21日)は、スペイン・カタルーニャの都市計画家。土木技術者。政治家。19世紀、大都市バルセロナの整備拡張計画を立案。その理論的根拠を示した都市計画原論から、南欧で使用される都市計画という用語の語源「ウルバニズム」という言葉とその概念を初めて提唱した。 == 来歴 == オソナ地方の山岳地帯にあるセンテリヤス村で、裕福な地主の4人兄弟の3男として生まれる。父親はリベラルな人物だったとされ、内政の政治的不安状況にあわせ、居住していた村から中心のビックに時々居住を変えていたとされる。本来は聖職者となるべくビックで教育され、神学校の寄宿生となる。1830年には哲学の学業を修了するが、神学校は家族の反対を押し切り中退。1831年、バルセロナの実業学校に転校し、おもに数学と建築を学ぶかたわら、翌年からは海洋学や図学も専攻する。しかし2年後には卒業を待たず、マドリードの土木技術学枚に移籍する。技術学校卒業後、技術者としての実務をかさね、1841年にはエンジニアの称号を得、スペイン政府省庁の公共事業セクションに技師として採用されてから1949年まで勤める。この間は主に道路と鉄道の敷設計画に関わっている。この時代にマドリッドの中央政府内に形成された人脈は、後のエンサンチェの計画認可をめぐって、後に大きな役割を果たすこととなったといわれている。事実エンサンチェの計画策定、認可、計画実施の段階で、それぞれバルセロナ市の要職を歴任し、政治の世界とも深くかかわることとなった。 兄二人は自分より先に夭折していたため、1848年にイルデフォンソが家督を相続している。このときの遺産はすべてその後の都市研究につぎ込んだとされる。 1851年には国会議員に転身、その後はバルセロナに戻り、1854年から2年間はバルセロナ市の市会議員に任命される。 1854年、政権を奪取した当時のスペイン中央政府の国民軍指令長官に就任、サパテロ将軍派工兵隊の指揮を執るほか、労働運動解決に際しては中央政府調停委員として解決に尽力。1856年のオドンネル将軍派のクーデターと労働争議が勃発した際には、軍指揮官として最前列で対置。 サパテロ軍指揮官として最前列で対置した経験は、彼の理論に影響を与えることとなった。 ただしバルセロナ市当局が争議の早期鎮圧を求めた見解に対して対立、サパテロ将軍に対抗した保守派のオドネル将軍の軍事クーデターに抗する大規模なマニフェステーションで、オドネル軍による戒厳令下、オドネル軍派、サパテロ軍派、バルセロナ市政府、労働者とそれぞれ対峙する諸勢力のなかでの行動は、セルダのその後の政治的立場を決定することとなった。 この時の政治的選択は、1859年のエンサンチェの計画を公募したコンクールでの採用に少なからずの影響をもたらしたとされている。セルダはまたオドネル将軍にも責任追及され、その後司令官任務は解任されている。 一方で、1856年から開始されたサン・ファン・デ・ラス・アバデサス鉱山までのバルセロナ・グラノリェース鉄道延長計画路線設計に技術者として関わる。1856年2月に始まったこの鉄道延長計画においても、線路のカーブについて、経済的コスト計算を踏まえて最適技術を割り出したことが、都市交通手段としてその後重要性をもつであろう路線を念頭に置き、道路幅を計算するのに役立ったという。 そして、鉄道技師時代の労働者層との経験知見から自ら資料データを収集して科学的な経済社会調査を実施し、労働者のおかれていた劣悪な都市状況を解明した報告書『バルセロナ労働者階層についての統計モノグラフィー』を刊行した。 セルダのエンサンチェの計画は、机上の空論ではなく、労働者階層が置かれていた状況を科学的に実証する資料を自ら収集し、それを基礎に構築されたものであり、今日彼の理論が高く評価される所以でもあり、これだけの統計的な社会調査は他に例をみないが、データの収集に役立ったのは、ひとつには、1854年の労働運動の解決に目処の立たないことから、マドリッドの中央政府に調停を委ねることになり、バルセロナ市から調停委員の1人に任命され、その折、労働者代表として同様にマドリッドに出ていた幹部ナルシス・ムントリオルとの間にできた人的関係があると指摘されている。さらに、鉄道敷設計画に関わって得た労働者階層との経験も大いに寄与したされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イルデフォンソ・セルダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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