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イワノフカ事件(イワノフカじけん)は、1919年3月22日、シベリア出兵中の日本軍が、抗日パルチザンに対する掃討作戦の過程でアムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村(ru)において多数の民間人を殺害した事件。 == 歴史 == 白衛軍は都市部こそ掌握したものの、農村はソビエト寄りで武装解除の要求にも応じなかった。白衛軍に従わないイワノフカ村に対し〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 470〕、右派エスエル党に所属する反革命指導者のアタマン・ガーモフは〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 200〕日本軍に応援を頼んだ〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 470〕。 もともと戦争の意味が曖昧で戦意も低かった上に、軽視していた敵軍による戦友の戦死が相次いでいた日本軍は厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、「暴徒」と「良民」も区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出された。〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474〕 1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長ノ指令ニ基キ」次のような通告を発している。〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 474〕 アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙った村落は他にもあるが、もっとも大規模で残虐な被害を受けたのがイワノフカ村であった。〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 475〕 その事があって以来、村民の大部分は極度に日本軍を恨み、パルチザン軍13個中隊を編成する結果となった。一方、山田旅団長は と威嚇を繰り返した。〔『シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922』原 暉之 1989年 筑摩書房 ISBN 978-4480854865 p. 477〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イワノフカ事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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