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イヴァン4世[いう゛ぁん4せい]
イヴァン4世( / 、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝( / )という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世( / )。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。'' / 、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝( / )という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世( / )。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。''、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝( / )という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世( / )。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。 == 主な事績 == 対外的には、東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れて、治世末期にはシビル・ハン国征服事業も成功裡に進んでいた〔ダニロフ(2011,209)〕。しかし、西部国境で長期にわたって続けられたリヴォニア戦争は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった〔ダニロフ(2011,217)〕。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年の「全ルーシのツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた〔ダニロフ(2011,202)〕。その反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じた。全土にわたって経済は低迷し、耕作地の放置が相次いだ〔ダニロフ(2011,225)〕。それを避けるために農民が土地から離れることを禁じた禁止年実施令は農民の領主への依存を強め、農奴制の下地となった〔ダニロフ(2011,225)〕〔田中(1995,264)〕。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イヴァン4世」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ivan the Terrible 」があります。
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