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インドネシア独立戦争 : ウィキペディア日本語版
インドネシア独立戦争[いんどねしあどくりつせんそう]

インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう)は、日本第二次世界大戦連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争独立戦争)。1945年から1949年までの4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった。
より狭義には、1947年7月21日1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動」(Politionele acties)と呼称している。しかし一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ並行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。
また、植民地時代や日本軍政期には旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後にインドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア八月革命」ともいう。
結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。現在も同日を記念して祝祭日としており、ジャカルタを中心に祝賀される。
==第二次世界大戦==

オランダ大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきた(オランダ海上帝国)。しかし1941年夏のABCD包囲網以来日本とオランダは敵対し、同年12月8日大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるとオランダ政府は12月10日に日本政府に対して宣戦布告(オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府が追認したものとされる)、これに応じて日本軍第16軍、ジャワ島上陸第1陣は約5万5000人)は1942年2月末から3月にかけて、スマトラ島ジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍(蘭印軍、約4万人)は、3月10日に日本軍に全面降伏した〔このように比較的短期間のうちに戦闘が終わった要因として、(1)オランダ本国がすでにドイツ軍に占領されていたこと、(2)蘭印軍自体が領土防衛ではなく国内治安のための軍隊であったこと、(3)開戦前からの日本軍による情報操作が功を奏し、現地住民の間に日本軍を歓迎するムードを作り出すことに成功していたこと、の3点が挙げられる(インドネシア国立文書館編、1996年、35頁)。〕。
その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った〔深田祐介文藝春秋刊 1991年 ">HREF="http://www.kotoba.ne.jp/word/深田祐介" TITLE="深田祐介">深田祐介文藝春秋刊 1991年 〕。
さらに1943年10月には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、スカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。
しかし、日本の戦局が悪化してくると、1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって〔8月14日に日本降伏は予告されていない。奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』95頁他。〕、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。
1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めたが徒労に終わった〔奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』116頁。〕。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保した〔奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』229頁他。〕。8月16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致された(レンガス・デンクロック事件)〔奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』128頁。〕。スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言すべく解放され、ジャカルタへ向かった〔奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』142頁。〕。8月16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した〔奥源造編訳(1973)『アフマッド・スバルジョ著 インドネシアの独立と革命』156頁。〕。8月17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し〔日本軍政期、軍政当局によって皇紀を使用することが規定されていたため、独立宣言文にみられる「2605年8月17日」の年号も皇紀が用いられている。信夫、1988年、258頁、倉沢、1991年、755頁。〕、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。
独立宣言後の8月22日には人民治安団(Badan Keamanan Rakyat)が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけた。この人民治安団が治安維持、急進化する青年層の取り込みといった目的をもっていたのに対して、10月5日に結成された人民治安軍(Tentara Keamanan Rakyat)は、10月になって本格的に進駐してきたイギリス軍および旧宗主国のオランダ軍に対抗するという目的があった〔今日のインドネシア国軍の「建軍記念日」はこの10月5日とされている。〕。人民治安軍は旧蘭印軍将兵に対してもこれへの参加を呼びかけ、純然たる軍組織を目指した。共和国側にはこの正規軍以外にも複数の非正規の武装組織が誕生し、その活動には政府の統制が及ばなかった〔安中、1969年、113-115頁〕。
一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。この命令を守るために独立派との間でスマラン事件などの衝突が生じ、日本側にも多数の死傷者が出た〔1945年9月2日から約半年の間に、日本軍はインドネシア側との衝突で627人の死者を出した。そのなかでも1945年10月、中部ジャワ州のスマランで発生した日本軍部隊とインドネシア人独立派との衝突(スマラン事件)では日本側に187人、インドネシア側に2000人近い犠牲者が出た(後藤乾一「戦後日本・インドネシア関係史研究序説」、『社会科学討究』40巻2号、1994年12月、358-359頁)。〕。他方で、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある〔増田、1971年、205-206頁。〕。その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡った〔元蘭印軍出身で後にインドネシア国軍の高官となるナスティオンの著作は、小銃2万6000、自動小銃1300、機関銃600、手榴弾9500、速射砲40、榴弾砲16などの数字を挙げている。〕。日本に引き揚げずに独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上った〔畠山清行、p675-676頁。各国の独立運動支援のために武器を持ったまま義勇軍に加わる者も少なくなかった。インドネシアの場合、その数は通常3千人といわれ、千人がオランダ軍との戦いで独立義勇軍の兵士として戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれる。帰化組は国の英雄とされ、死亡後は国立英雄墓地に埋葬されている。〕〔約2000人の元日本軍兵は祖国に帰らず、そのまま除隊(この時点で日本軍籍は消滅)、残留してインドネシア独立軍に参加し、降伏時所持していた兵器物資を横流しした者、軍政資材をそのまま利用し独立運動の広報・宣伝に当たった者もいた(『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/『アジア独立への道』田中正明など)。ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかった。なお、陸軍第16軍の作戦参謀を務めた宮元静雄によると、帰隊者・死亡者をのぞく現地逃亡残留兵は総計277名で、そのうち166名はジャワのバンドン地区の将兵であった(宮元、1973年、375頁)。〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「インドネシア独立戦争」の詳細全文を読む



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