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イヴァン・アレクサンダル・アセン : ウィキペディア日本語版
イヴァン・アレクサンダル

イヴァン・アレクサンダル(/Ivan Aleksandǎr
、original spelling:ІѠАНЪ АЛЄѮАНдРЪ〔この綴りは中世ブルガリアの特許状に見られる。〕、John Alexander、? - 1371年2月17日)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位:1331年 - 1371年〔Lalkov, ''Rulers of Bulgaria'', pp. 42–43.〕)。長期にわたるイヴァン・アレクサンダルの治世はブルガリア中世史の過渡期にあたると考えられている。イヴァン・アレクサンダルの治世はブルガリア内部の抗争とビザンツ帝国(東ローマ帝国)やセルビアなどの隣国の脅威への対処から始まり、国家の財政の回復、文化・宗教のルネサンスを現出した〔''Bǎlgarite i Bǎlgarija'', 2.1〕。
しかし、治世の半ばからオスマン帝国のブルガリアへの進出、北西のハンガリー王国からの攻撃、ペストの流行に直面し、イヴァン・アレクサンダルは一連の問題に対処することはできなかった〔。二人の子供に領土を分割する試みは不幸な結果をもたらし〔Delev, ''Istorija i civilizacija za 11. klas''〕、オスマン帝国の侵攻に直面したブルガリアは弱体化・分裂する〔〔。
サウス・シェトランド諸島ネルソン島に存在するはイヴァン・アレクサンダルの名前に由来する〔Composite Gazetteer of Antarctica: Ivan Alexander Point.〕。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
イヴァン・アレクサンダルはブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンの甥にあたり、父方からアセン王朝の系譜に連なる血を引いている〔〔。のデスポト(僭主)スラツィミルとミハイル3世の姉妹Petricaの間の子として生まれた〔Bozhilov, ''Familiyata na Asenevtsi'', pp. 192–235.〕。
1330年頃、イヴァン・アレクサンダルはデスポトとしてロヴェチを統治していた。同年に父のスラツィミル、義父であるワラキアの公バサラブとともにセルビア攻撃に参加するが、ブルガリア軍はヴェルブジュドの戦いでセルビアに敗北する。ヴェルブジュドでの敗戦はブルガリアに危機的な状態をもたらし、ビザンツ軍の侵入によって状況はより悪化する。こうした中、1331年にブルガリアの首都タルノヴォで起きたクーデターによって皇帝イヴァン・ステファンが廃位された後、クーデターの首謀者たちはイヴァン・アレクサンダルを帝位に就けた〔Fine, ''Late Medieval Balkans'', p. 273.〕。
新たなブルガリアの支配者となったイヴァン・アレクサンダルは、ビザンツに奪われた領土を回復することで自らの地位を確立しようと試みた。1331年にブルガリアはアドリアノープル(エディルネ)に進軍し、トラキア地方北東部をビザンツから奪還する〔〔。同盟を結んでいたジョチ・ウルスの軍隊とビザンツの支配に抵抗するブルガリア住民の支持を受け、短期で北トラキア、ザゴラ、黒海沿岸地方南部を奪回することができた〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、106頁〕。他方、セルビアでは1331年にステファン・ウロシュ3世デチャンスキが廃位され、王子ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが新たなセルビア王に即位する事件が起き、ウロシュ4世の即位はブルガリア・セルビアの関係の正常化に大きな役割を果たした。1332年復活祭の日、イヴァン・アレクサンダルとウロシュ4世は同盟を締結し、同盟をより強固にするためイヴァン・アレクサンダルの姉妹エレナとウロシュ4世の結婚が取り決められた〔〔〔Fine, ''Late Medieval Balkans'', p. 274.〕。
セルビアとの同盟の締結と同時期、ミハイル3世の弟ベラウルがイヴァン・アレクサンダルの退位とイヴァン・ステファンの復位を要求してヴィディンで反乱を起こす。反乱は長期にわたり、1332年の夏にはビザンツ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスがブルガリアに向けて進軍する事件が起きる。ビザンツ軍はブルガリアの支配下に置かれているトラキア北東部に侵入すると、イヴァン・アレクサンダルは少数の軍隊を率いて南下し、ルソカストロの村でアンドロニコス3世と対峙した〔。
イヴァン・アレクサンダルは和平を提案してビザンツ側に消極的な印象を与えた後、モンゴルの騎兵を加えた少数の精鋭を率いて攻撃を仕掛け、ルソカストロの戦いで勝利を収める〔。アンドロニコス3世がルソカストロに避難している間、ブルガリアと対立していた都市はイヴァン・アレクサンダルに降伏した。イヴァン・アレクサンダルとアンドロニコス3世の講和によって戦争は終結し、現状を維持することで二国は合意した。同盟の証として、イヴァン・アレクサンダルの長子であるミハイルとアンドロニコス3世の娘であるマリア(エイレーネー)の婚約が取り決められ、1339年に二人は結婚した〔〔Božilov, ''Familijata na Asenevci'', pp. 192–197.〕。1336年/37年にはブルガリア北西部でのベラウルの反乱が鎮圧される〔Andreev, ''Bǎlgarija prez vtorata četvǎrt na XIV v.'', pp. 33–41.〕。
一族の地位を確保するため、1332年にイヴァン・アレクサンダルは長子のミハイルを共治帝の地位に据えた。ミハイルの戴冠式に続けて、1337年にtraditional associationとしてミハイルの弟イヴァンイヴァン・スラツィミルを共同統治者に任命する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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