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イヴァン・ツァンカル(Ivan Cankar、)(1876年5月10日 - 1918年12月11日)は スロヴェニアの作家、劇作家、随筆家、詩人で政治活動家。近代スロヴェニア最大の作家とみなされており、フランツ・カフカやジェイムズ・ジョイスに比較されることもある。 〔Pirjevec Dušan: Ivan Cankar in evropska literatura, Ljubljana, Cankarjeva založba, 1964.〕 スロベニアのユーロ導入まで流通していた1万トラール紙幣に肖像が使用されていた。 == 生涯 == イヴァン・ツァンカルは、当時オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったスロヴェニアでリュブリャナ近郊のヴルフニカに生まれた。たくさんの子供をかかえた貧しい職人の父は、8番目の子であるイヴァンの誕生後まもなくボスニアへ出稼ぎに出た 〔Kos, Janko: Pregled slovenskega slovstva, Ljubljana, DZS, 1983.〕 。 そのため母はひとりで子供たちの養育に心を砕くことになり、そんな母に対して多感な彼は大きな愛情や感謝とともに複雑な負い目を抱くようになった。自己犠牲に富み、従順であることによって抑圧的な母親という人物像は、後のツァンカルの散文にとって最も顕著な特徴のひとつになっている 〔Doležal-Jenstrle, Alenka: Mitologizacija ženske v Cankarjevi prozi, Ljubljana, Filozofska fakulteta Univerze v Ljubljani, 2003.〕 〔Košiček, Marijan: Ženska in ljubezen v očeh Ivana Cankarja, Ljubljana, Tangram, 2001.〕 〔Puhar, Alenka: Prvotno besedilo življenja, Zagreb, Globus , 1982.〕 〔Žižek, Slavoj: Jezik, ideologija, Slovenci, Ljubljana, Delavska enotnost, 1987.〕 。 故郷の町で小学校を終えた後はリュブリャナの工業系高等学校(Realka)に進んだ。この高等学校時代に創作を始め、最初はハインリヒ・ハイネやスロヴェニアの国民詩人フランツェ・プレシェーレンなどロマン派の影響の色濃い詩を書いていたが、1893年にアントン・アシュケルツ の叙事詩に出会ったことによりロマン派的感傷を離れてリアリズムへ移行し、同時に民族主義や自由主義の政治意識にも目覚めることになった 〔Kos, Janko et al.: Slovenska književnost, Ljubljana, Cankarjeva založba, 1982.〕 。 その後1896年に工学専攻でウィーン大学に進んだが、まもなく文学や哲学に熱中してボヘミアン的な奔放な生活に身を投じ、同時代のヨーロッパ文学、中でもデカダン派や象徴主義の影響を貪欲に吸収した 。同時にまた、若きスロヴェニア人作家フラン・ゴヴェカル との交友によって実証主義や自然主義にも親しむようになった 。 1897年の春にはいったんヴルフニカに帰郷したものの、同年秋に母が亡くなると翌1898年に再びウィーンに戻り、1909年まで10年あまりウィーンにとどまった。再びウィーンで暮らし始めると、1899年から労働者の町オッタークリング 地区に移り住んだ。この間に彼の世界観や文学観は大きな変化を経験した。以前傾倒したアントン・アシュケルツの詩に対して厳しい批判を公にし、またフラン・ゴヴェカルとも決裂して実証主義や自然主義に別れを告げた。新たに唯心論や理想主義に傾倒するとともに、キリスト教的行動主義を唱えるスロヴェニア人司祭ヤネズ・クレック の思想に触れてしだいに社会主義と政治活動への傾斜を深めていった 。しかしキリスト教的社会主義、特にクレック率いるスロヴェニア人民党 の教権主義 的で保守的な体質になじむことができず、1907年に行われたオーストリア議会の第一回普通選挙にマルクス主義的なユーゴスラヴ社会民主党 から立候補したが、結果はスロヴェニア人民党の候補に敗れて落選に終わった 〔Zver, Milan: Sto let socialdemokracije na Slovenskem, Ljubljana, Nova obzorja, 1996.〕 。 1909年に最終的にウィーンを離れてからは、弟カルロが司祭を務めるサライェヴォに一時身を寄せた後、リュブリャナのロジュニック 地区に落ち着いた。相変わらずユーゴスラヴ社会民主党の党員として活動を続けながらも、ユーゴスラヴ国家建設のため南スラヴ人の言語や文化の漸進的融合を目指す党の方針に対し、スロヴェニア語とスロヴェニア文化の自立を図るツァンカルはしだいに違和感を強めていった。 1907年の選挙戦以来自らの政治的主張を訴える文章を多数発表するようになっていた彼は、これ以後、執筆活動のかたわらスロヴェニア各地を精力的に飛び回って講演活動に奔走するようになった。1907年にトリエステで行った講演「スロヴェニア人とスロヴェニア文化」、1913年にリュブリャナで行った講演「スロヴェニア人とユーゴスラヴ人」などが特に有名で、これらの講演によって、南スラヴ人の政治的融合による連合国家の建設を目指しつつ、同時に文化や言語の面では個々の民族の独立性を維持すべきであるという持論を熱烈に訴え続けた 〔Cankar, Ivan: Bela krizantema, Ljubljana, 1968.〕 。だが、そのような訴えは当然のことながらオーストリア=ハンガリー帝国に対する体制批判と見なされ、1913年と1914年の二度にわたって獄中生活を経験することになった。 第一次大戦中の1917年にはオーストリア=ハンガリー軍の兵士として徴兵されたが、まもなく健康上の理由により除隊になった 。大戦終結直後の1918年11月にもトリエステで講演を行い、スロヴェニアの政治や文化の活性化を訴えたが、翌12月に階段での転倒事故がもとでリュブリャナ中心部の施療院に収容され、その一室で肺炎のために生涯を終えた。42歳だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イヴァン・ツァンカル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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