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李滉[り こう]
李 滉(り こう / イ ファン、ユリウス暦1501年12月24日(大統暦弘治十四年十一月二十五日) - ユリウス暦1570年12月24日(大統暦隆慶四年十二月初八日))は李氏朝鮮の儒学者。字は景浩(キョンホ)。号は退渓、陶翁、清涼山人、真宝人。李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称される〔曺植(曺植 南冥)を含む朝鮮朱子学における三大儒と称される。〕。 == 生涯 == 慶尚道安東(現在の大韓民国慶尚北道安東市)出身。本貫は慶尚道真宝。科挙に合格した後に中央や地方の官僚として活躍した。両班として文科及第ののち成均館の司成となるが、1545年の乙巳士禍で失脚した。洛東江のほとりの兎渓に養真庵を結んで隠遁し、兎渓(トゲ)の地名から「退渓」(テゲ)と号して学問に専心した。その後、たび重なる出仕の命に応じて丹陽郡守となり、豊基郡守時代に朝鮮半島初の賜額書院、紹修書院などを実現して書院文化を築いた。成均館大司成などを歴任した。豊基郡(現在の慶尚北道栄州市)守時代には紹修書院を開いた。 1560年には郷里に隠棲し、「陶山書院」を開き、儒教の研究と後進の育成に力を注いだ。「陶山書院」は王から扁額を賜った賜額書院として朝鮮の儒教の興隆のさきがけとなる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李滉」の詳細全文を読む
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