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イーワーン : ウィキペディア日本語版
イーワーン

イーワーン( ''eyvān'', ''īwān'', )とは、イスラーム建築によくみられる、一方が完全に開き、三方がで囲まれて、天井アーチ状となっているホールまたは空間7世紀に滅んだサーサーン朝ペルシャで顕著にみられ、後世に見いだされて11世紀から12世紀にかけてのセルジューク朝の時代にイスラーム建築の基本的な設計単位として定着した。イーワーンは、通常、中庭にむけて開いており、公共の建物だけではなく私的な住宅にも使用された。ペルシア語ではイーヴァーン、エイヴァーンなどとも言う。
== 概要 ==

イーワーンは、トンネル形のヴォールト(穹窿)を架けた前方開放式の小ホールであり、半外部空間である。これが、サーサーン朝建築の伝統に由来している点ではドームと同様であり、イスラーム化される以前のペルシャ宮殿建築におけるの謁見用ホールを継承しているとの指摘がある〔イスラーム建築Q&A (神谷武夫)〕。部屋の四辺のうち一辺を中庭などの戸外、ときにはドーム室など、より大きな空間に向かって開き、正面には大アーチが設けられることが多い。また、多くの場合、普通の部屋よりも大きく、天井の高い開放的な空間となっている。
のない大空間としてのイーワーンは、紀元前後のオリエント建築に誕生したが、イスラーム建築に採用されるようになったのは、12世紀のペルシャ世界が始まりとされている。大ドームとセットになることで、モスク建築に採り入れられるとともに、このイーワーンとドームを組み合わせた形が、大モスク建築のスタンダードの1つとなって、13世紀には、エジプトアナトリアインドなどの各地でも採用された〔深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.55-57〕。
サーサーン朝時代に建設された作例としては、イランのターゲ・ボスターンの大洞(7世紀)・小洞(4世紀)のような半円アーチのヴォールトや同じくサーサーン朝の首都であったイラククテシフォン遺跡のような楕円アーチによるヴォールト構造がそれぞれ見られ、イスラーム時代に入って展開するイーワーンの形式の萌芽が既に見られる〔アンリ・スチールラン 1987年 pp.19-20〕。
現在多く見られるような尖頭アーチによるヴォールト構造のイーワーンがいつ頃定着したか、現存する古い作例が少ないため分からないことも多いが、アッバース朝バグダード建設直後の778年に建てられたウハイディル宮殿に尖頭アーチ・ヴォールト構造が確認され、9世紀後半のエジプトのイブン・トゥールーン・モスクや10世紀のイランのナーインの金曜モスクの列柱のアーチ、中央アジアのブハライスマーイール・サーマーニー廟などにも尖頭アーチが見られる。中庭を挟んだ対面式のイーワーンがはっきり確認出来るのはセルジューク朝時代やガズナ朝時代のもので、11世紀のガズナ朝のスルターン・マフムードアフガニスタンラシュカルガー近郊に建てた宮殿遺跡ラシュカリ・バーザールは上部構造が崩落しているためどういったイーワーンの構造になっていたのか創建時の姿は分からなくなっているが、中庭を挟んで東西南北にイーワーンの空間が設けられており、壁面を覆うアーチの列柱飾り部分は尖頭アーチになっている。現存するもので後述の四イーワーン(チャハール・イーワーン)様式の最古のクラスの作例はイスファハーン旧市街の金曜モスクで、セルジューク朝マリク・シャーの時代から度重なる改修の結果、12世紀前半には尖頭アーチを備えたほぼ現在の四イーワーン構造になったと考えられる〔アンリ・スチールラン 1987年 pp.86-99〕。

イーワーンはまた、マドラサ(学林、ウラマー育成の高等教育施設)の中庭に面した各辺の中央にも設けられ、講義礼拝の場として用いられた。マドラサは9-10世紀頃にイランのホラーサーン地方で登場したローカルな施設であったようだが、11世紀にセルジューク朝のニザームルムルクシーア派ブワイフ朝ファーティマ朝に対抗してシャーフィイー学派ハナフィー学派のスンナ派教学の宣撫のためにイランやイラクの主要都市にマドラサを建設したことによって広まった。このニザームルムルクの名前を冠したニザーミーヤ・マドラサはイラン高原からイラクシリアアナトリア地方などセルジューク朝の支配地域で多数建設され、その後各々の地方の君主や有力者によって建てられたマドラサの祖形となった。
マドラサの構造はを併設し、中庭を囲む各辺は、多くの場合、階下・階上ともに学生たちが寝起きする個室にあてられた。言い換えればマドラサは、通常、中庭が多数の個室や教場、礼拝室などによって取り囲まれた構造をとっている。1233年にアッバース朝カリフ・ムスタンスィルによって建てられたバグダードのマドラサ・ムスタンスィリーヤもこのような設計によっている〔アンリ・スチールラン 1987年 pp.97-99〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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