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イーヴァル・アンドレアス・オーセン(Ivar Andreas Aasen, 1813年8月5日 - 1896年9月23日)は、ノルウェーの言語学者、文献学者、詩人。デンマーク語の影響を排した新しいノルウェー語の確立に努め、後にランスモール(現在のニーノシュク)を創生した〔ニーノシュクもブークモールも書き言葉であり、話し言葉としてのノルウェー語とはやや異なる。詳細は各ページの他、言語戦争なども参照。〕。 ==生涯== ノルウェー西部のスンメール〔『岩波=ケンブリッジ 世界人名辞典』〕〔訳によって「南メレ県」とも表記。〕に農民の子として生まれる〔集英社『世界文学大事典』〕。早くに両親を失い〔、父の農場の仕事の傍ら独学で言語学を学ぶ。18歳で国民学校の教師となった〔小学館『日本大百科全書』〕。 当時のノルウェーは400年を超えるデンマークの支配から政治的に脱したばかりの頃で、自治権の獲得に終わらず文化的にもデンマークから独立しようとする運動が活発な時期であった〔デンマークによる支配の時代はデンマーク語が官用語とされ、ノルウェー語は田舎の粗野な言語として扱われていた。〕。そのような社会情勢の一環として、言語の面でも従来のデンマークからの影響が強いノルウェー語を見直し、新しい自国の言語を持とうとする動きが出てきた。この動きの中には2つの流派があり、1つは従来のデンマーク語風ノルウェー語を基盤としつつ、ノルウェー独特の語彙などをこれに加えようとするもの(後の「リスクモール」)、もう1つはデンマーク語の影響を排して、古来からあるノルウェー独自の言語を復活させようとするものであった〔ヴェセーン『北欧の言語』〕。 熱心な民族主義者であった〔オーセンは後者の運動に参加し、トロンヘイム学術協会の援助を得て〔、全国各地を旅行しながら地方文化と方言について記録と研究を行った。この成果として1848年に『ノルウェー民族言語文法』、1850年に『ノルウェー民族言語辞典』を編纂する。以後、『ノルウェーにおけるランスモールの試み』(1853年)、『ノルウェー語文法』(1864年)、『ノルウェー語辞典』(1873年)といった著作を発表した。これらにより、従来のデンマーク風ノルウェー語に対し、新しいノルウェー語「ランスモール」が完成された〔。ランスモールはデンマークの影響を受けにくかった西ノルウェーや山間の僻地などに残った方言が集成されたものである〔〔『新潮世界文学辞典』〕。 このランスモールは多くの詩人や作家に影響を与え、、オースムン・ヴィニエ、オーラブ・ドゥーン、タリェイ・ヴェーソースら〔が用いるようになった。オーセン自身もランスモールでの創作物を作成しており、音楽劇『継承者』や詩集『アネモネ』〔、他に昔話など〔を発表している。やがてランスモールは大きな勢力を持つようになり〔、1885年にノルウェー議会によってランスモールはリスクモールと並ぶ第二の公用語として承認されるに至った〔〔。 1896年、オスロ(当時の名称ではクリスチャニア)にて没した〔『ブリタニカ国際大百科事典』〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イーヴァル・オーセン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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