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ウィラード・ブラウン(Willard Jessie "Home Run" Brown, 1915年6月26日 - 1996年8月4日) は、1930~1940年代にアメリカ合衆国のニグロリーグ、プエルトリコで活躍していた野球選手。主なポジションは中堅手。ルイジアナ州シュリーブポート生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Home Run" Brown(ホームラン・ブラウン)、プエルトリコでは"Ese Hombre"(エセ・オンブレ:『男の中の男』の意)とも。主にニグロリーグとプエルトリコのウィンターリーグで強打を誇った外野手で、1947年にメジャーリーグでもプレーした。 == 来歴・人物 == 1934年にニグロリーグのマイナー球団だったモンロー・モナークスに入団しプロの野球選手となる。1936年にカンザスシティ・モナークスに移籍。1930~1940年頃のニグロリーグでは本塁打を量産し、しばしばジョシュ・ギブソンとの本塁打数争いを制していたという。 1944年から1945年に第二次世界大戦に従軍した後、1947年にメジャーリーグの『カラーライン』が破られたのをきっかけに、この年の7月からセントルイス・ブラウンズ(現ボルチモア・オリオールズ)と契約しメジャーリーグに21試合に出場する(彼がメジャーリーグの試合に出場したのはラリー・ドビーのデビューの2週間後だった)。しかしブラウンはメジャーリーグでの人種差別に苦しみ、打率わずか.179、1本塁打の成績に終わりブラウンズから放出される。ただしこの本塁打は、アメリカンリーグにおいて黒人選手が放った最初の本塁打となった。 この年のシーズンオフに、ブラウンはプエルトリコのウィンターリーグに参加し、60試合で打率.432、27本塁打、86打点と打ちまくった。またプエルトリコのリーグでは1949~1950年のシーズンでも再び打撃三冠に輝いている。 1948年からニグロリーグのモナークスに復帰、モナークスでは1950年までプレーした。その後は1953年から1956年までテキサスのマイナーリーグに所属、1954年にはテキサスリーグで35本の本塁打を記録している。 1996年にヒューストンにて死去。2006年にニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィラード・ブラウン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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