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ウィリアム・ヘンリー砦(ウィリアム・ヘンリーとりで、Fort William Henry)は、かつてニューヨーク植民地ジョージ湖南端にあったイギリスの砦である。この砦は、1757年のウィリアム・ヘンリー砦の戦いで、降伏したイギリス兵にインディアンたちが残虐な行為を働いたことで有名で、この残虐行為は、1826年1月に初版が出版された、ジェームズ・フェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後』のテーマとなった。 1757年の戦いの後、フランスは砦を壊して退却した。後にジョージ砦が近くに建てられたこともあり、ウィリアム・ヘンリー砦の跡地はそのままにされて、19世紀には風光明媚な場所として知られていた。1950年代に、歴史に関心を持った人々により、砦が復元され、今は博物館でもあり、レイク・ジョージの町の観光の目玉となっている。 ==砦の建設== 1755年の8月、サー・ウィリアム・ジョンソンと3,000から4,000にものぼる大陸軍はラック・サン・サクラマンLac St. Sacrementに野営し、その時ジョンソンは、時のイギリス国王の名にちなんで、この湖をジョージ湖と改名した。一方、フランス軍の将軍ディスカウは、野営地からジョージ湖をはさんで対岸にあるタイコンデロガの地にフランス兵、ヌーベルフランス民兵にインディアンの予備兵を集結し、果敢にもエドワード砦に向けて進軍を始めたが、グレンフォールズ周辺に到着して、その時に「血ぬられた朝の斥候」The Bloody Morning Scoutが起き、それがジョージ湖の戦いへと発展し、この戦いでディスカウ率いるフランス軍は敗退した。このことでイギリス軍は、この地が如何に重要であるかを悟り、ここに砦を建てることにした。湖の対岸ではフランスがカリヨン砦を建築中であった〔Surrender of Fort William Henry, Ny August 9, 1757:New York State Independence T 〕。 クラウンポイントにあったフランスのサン・フレデリック砦攻撃の足がかりとなるこの砦は、ニューヨークからモントリオールへの、重要な位置にある連水経路に沿った、一連の英仏の砦の一部で、また、ニューヨークとヌーベルフランスの境界の要となる位置をも占めていた。砦の名は、国王ジョージ2世の王子であるカンバーランド公ウィリアム、そしてジョージ2世の孫で、ジョージ3世の弟であるグロスター公ウィリアム・ヘンリーにちなむ〔Anderson, p. 123〕。 設計と建築は、イギリス軍の技師ウィリアム・エアの監督に任された。ウィリアム・ヘンリー砦は、変則的な正方形の砦で、それぞれの隅に稜堡があった。この設計は、インディアンの攻撃を撃退するものであったが、大砲を持った敵相手には、必ずしも耐えられるものではなかった。城塞は30メートルの厚さで、土塁の周りに丸太が巡らされていた。内部には、2階建ての木造の兵舎が、練兵場の周囲にあった。砦の三方は乾いた堀で、残りの一つは湖の方へと降っているため、砦への唯一の接近手段は、堀にかかる橋だった。400人から500人の兵を収容するのが精一杯で、それ以上の部隊は、砦から750メートル南西に離れた、塹壕のある野営地に宿営した。ここはジョージ湖の戦いの戦場から、さほど離れていなかった〔Starbuck, p. 7〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ヘンリー砦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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