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ウィリアム・ホールデン : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・ホールデン

ウィリアム・ホールデン(William Holden, 1918年4月17日 - 1981年11月12日)は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の俳優である。本名はWilliam Franklin Beedle Jr.。
== 生涯 ==
イリノイ州オファロンに、父は化学者〔 "Ancestry of William Holden." ''Genealogy.com.'' Retrieved: November 13, 2011.〕、母は教師という裕福な家庭に生まれる。学生時代は細菌学者を目指していたが、パサディナ・ハイスクールからジュニア・カレッジに進学した頃から演劇に傾倒し、パサディナ・プレイハウスで演技を学ぶ。劇団に所属して、『キュリー夫人』の端役で舞台に立っていたところをパラマウントにスカウトされて1938年に映画入り。ホールデンの芸名の由来は、彼がパラマウントの重役に紹介された際、たまたま掛かってきた電話の相手の名を頂いたものだった。1939年のデビュー作『ゴールデン・ボーイ』で早くも注目される。その後も『前科者』『我等の町』など好調なスタートを切る。当時は“赤ん坊のような笑顔を持った隣家のお兄ちゃん”と呼ばれ、アイドルスターとして売り出した。
第二次大戦中は陸軍航空隊に所属。4年間の軍務の後、戦後再び映画に出演するが、しばらくは作品に恵まれず復帰間もないころは低迷していた。しかし、1950年ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』でアカデミー主演男優賞にノミネート、この一作でそれまでのアイドル路線から脱却し演技派スターへと変化を遂げてスターダムを駆け上がる。その後は1950年代を通じて興行的に最も信頼できるスターと称され、数々のヒットを飛ばし、特にビリー・ワイルダーと再び組んだ『第十七捕虜収容所』では念願のアカデミー主演男優賞を受賞。他にもデヴィッド・リーン監督『戦場にかける橋』、キャロル・リード監督『鍵』、ジョン・フォード監督『騎兵隊』、『喝采』、『麗しのサブリナ』、『ピクニック』、『慕情』と、世界映画史を代表する名作・ヒット作に出演し大活躍。常に人気も上位にランクインしていた。
来日もしており、黒澤明監督との写真も現存する〔マガジンハウス刊「スタアの40年 平凡 週刊平凡 秘蔵写真集」より〕。
トコリの橋では淡路恵子戦場にかける橋では早川雪洲第七の暁では丹波哲郎と競演をしている。
ハリウッドでも指折りの実業家としても有名で、野生動物の保護に熱心に取り組み、1970年代にはアフリカケニアに1260エイカーにも及ぶ広大な土地を購入、そこを保護区にしサファリ・クラブの共同経営などにも参加した。また、1959年には税金対策の為に家族共々スイスに移り住んだりした。
女優のブレンダ・マーシャルと応召前の1941年に結婚し、3人の子供に恵まれたが、1970年に離婚。さすがに1960年代終わりのアメリカン・ニューシネマの時代に入ってからは人気も下降気味になったが、1969年サム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』、1973年クリント・イーストウッド監督『愛のそよ風』、1974年の『タワーリング・インフェルノ』、そして、1976年にはシドニー・ルメット監督『ネットワーク』で再びアカデミー主演男優賞候補になるなど、1970年代にも活躍を続けた。しかし、私生活では事業の不振や呼吸器疾患、年下の女優ステファニー・パワーズとの関係などから、晩年はアルコール依存症だったという。そして1981年、自宅の階段から酔ったまま転倒して頭を大きく切ってしまい、出血多量が原因で急死。その発見は死後4日経ってからであった〔Bennett, Bruce. "William Holden's Unscripted Fall From Grace." ''New York Sun,'' July 2, 2008.〕。
本格的デビュー作『ゴールデン・ボーイ』で共演して以来、長年、彼と交流のあった女優バーバラ・スタンウィックが、彼の死去後の1982年3月29日に開催された第54回アカデミー賞授賞式で名誉賞を受賞した。その受賞スピーチでバーバラは「彼が好きでした、亡くなって寂しい。彼は私がオスカーを手にすることをいつも願ってくれていました。」と語り、オスカー像を掲げ「私のゴールデン・ボーイ(彼女は彼をこう呼んでいた)、あなたの願いが叶ったのよ!」とスピーチを締めくくって哀悼の意を表した〔Barbara Stanwyck receives Honorary Oscar 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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