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ウィーン会談(ウィーンかいだん)は、1961年6月3日から6月4日にかけて、オーストリアのウィーンで行われた、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと、ソビエト連邦最高指導者(ソビエト共産党第1書記)ニキータ・フルシチョフとの会談である。両者の名をとって、ケネディ=フルシチョフ会談とも呼ばれる。 ==内容== この会談でフルシチョフは、西ベルリンを統治しているアメリカ・イギリス・フランスに西ドイツを加えた西側4ヶ国とソ連は、東ドイツと講和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張した。そして、それが為されれば、ドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならないと説いた。これに対して、ケネディは、ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失うと主張した。 フルシチョフは、ソ連は今年中に単独でも東ドイツと講和条約を締結すると告げた。そして、平和条約により戦争状態が終結すれば、東ドイツ領土(東側の主張ではだが)である西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になると続けた。さらに、侵略を阻止するためには戦争も辞さないと。 ケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げた。 ケネディが要求を蹴ったことに応じ、東側はベルリンの壁を建造した。ウィーン会談に始まる、ベルリンをめぐる東西間の緊張を、と呼ぶ。 なお、ケネディがフルシチョフの覚書を読んだとき、「フルシチョフが本気でアメリカと対決する気があるなら、核戦争の起きる可能性は5分の1くらいはある」と言ったとアーサー・シュレジンジャーは残している。また、第二次世界大戦においてソ連が2000万人の犠牲者を出したことを引き合いに出し、今のアメリカにはその2倍のロシア人の命が1時間で失われる軍事力があると警告した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィーン会談」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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