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ウェスリー・レイ・ヘルムズ(Wesley Ray Helms, 1976年5月12日 - )はアメリカ合衆国ノースカロライナ州ガストニア出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 叔父のトミーもシンシナティ・レッズなどでプレーした元野球選手。 ==経歴== 6月15日にアトランタ・ブレーブスと契約しプロ入り。は、20歳ながらマイナーリーグで打率.290・17本塁打・76打点というハイレベルな成績を残した。及びにも2ケタ本塁打を放ち、3年連続で10ホームラン以上を記録した。 9月5日に、メジャーデビューを果たす。同年、7試合の出場ながら打率.308・OPS0.923という成績をマークした。 、メジャーでは試合に出場しなかった。一方マイナーでは、39試合で打率.336・8本塁打・36打点という打撃成績を記録し、強打を発揮した。守備面では、35試合のファースト守備で4失策を犯した。 、2年ぶりにメジャー復帰を果たしたが、僅か6試合の出場に留まった。マイナーでは打率.288・20本塁打・88打点という好成績をマークし、2年連続で大砲として活躍した。他方、守備面では拙守を露呈してしまい、130試合でサードを守って23失策・守備率.933というレベルの低い内容だった。 からは本格的にメジャー定着を果たし、100試合に出場して2ケタ本塁打を放った。前年マイナーで大量に失策を犯した守備では、ファーストをメインに守り (77試合) 、4失策・守備率.991という安定した成績を残した。また、サードとレフトを守る機会もあった。 、85試合に出場して打率.243と、少し打率が上昇した。守備では内外野のユーティリティ・プレイヤーとして起用され、一塁45試合・三塁24試合・左翼5試合・右翼4試合を守った。シーズンオフに、レイ・キングとのトレードで、ジョン・フォスターと共にミルウォーキー・ブルワーズへ移籍。 に三塁手のレギュラーを獲得。8月に一時DL入りした期間があったものの、23本塁打・67打点をマークしてメジャーで長打力が開花した。守備では、サードでフルシーズン起用されて130試合守ったが、19失策・守備率.945・DRS - 10と相変わらず拙守だった。 もサードのレギュラーで起用されていたが、プエルトリコで公式戦が開催された時、球場へのトンネルで転倒して肘を故障し、DL入りした。復帰後もサードで起用されたが、凄まじいペースでエラーを犯してエラーマシンと化し (66試合のサード守備で16失策・守備率.904) 、ラッセル・ブラニアンにレギュラーの座を奪われた〔。しかし、ブラニアンは三振を量産して、はエラーマシン・ヘルムズと三振マシン・ブラニアンで争う事になった〔。 2005年は代打での起用が主になったが、95試合で打率.298・4本塁打・24打点という好成績をマークした。OPS0.815も、メジャーで80試合以上に出場したシーズンとしては、最高の数値 (当時) であり、2003年以来となる打棒復活を果たした。12月30日に、フロリダ・マーリンズへ移籍。 、自己最高の140試合に出場して打率.329・10本塁打・47打点・OPS0.965という素晴らしい成績を記録した。守備ではエラーを量産していたが、この年は88試合のファースト守備で無失策だった。だが、DRSは - 3だった。サードを守ったのは24試合だった。シーズンオフの11月15日、フィラデルフィア・フィリーズと2年総額550万ドルの契約を結んだ。 4月2日にDFAとなり、5日にトレードでフロリダ・マーリンズへ移籍。 8月13日に解雇され、17日にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結ぶが、9月1日に解雇される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウェス・ヘルムズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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