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ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア () は、スコットランド原産の一犬種。白一色の被毛を持つ小型のテリアで、ウェスティ (Westie) という愛称で呼ばれている。19世紀にスコットランドで飼育されていた白い被毛の犬同士を掛け合わせて作出された犬種の子孫である。19世紀にポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムが、現在のウェスティの重要な血統となる白いテリアを作出し「ポルタロッホ・テリア」と名づけたが、現在ではこの名称はほとんど知られていない。その他現在のウェスティの祖先といえる血統として、第8代アーガイル公爵ジョージ・キャンベルの「ローズニース・テリア」とドクター・アメリック・エドウィン・フラクスマンの「ピッテンウィーム・テリア」があげられる。これらの血統の子孫にウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアという名前が与えられたのは1908年のことで、各国のケネルクラブもその後まもなくこの犬種を公認した。現在でもイギリスでは人気が高い犬種であり、アメリカでも1960年代以降つねに上位3分の1に入る登録犬数となっており、日本での登録件数は1999年以降20位から30位程度である。BBC スコットランド制作のテレビドラマ『』などテレビ作品や映画作品に出演することも多く、宣伝広告としてもマース社のドッグフードブランドであるシーザーのパッケージや、スコッチ・ウイスキーの銘柄「」のラベルなどに使用されている。 ウェスティは小型のテリアで、スコットランド原産のほかの小型テリアに比べると脚部は長い。被毛は白一色の豊富なダブルコートで、頭部にも密生する被毛が丸顔の犬種であるという印象を与えている。幼い子供とともにすごすことを苦にする犬種ではないが、加減を知らない子供から手荒な扱いを受けた場合にはこの限りではない。活動的な犬種で、もともと猟犬として使役されていたこともあって獲物を追いかける本能が強い。非常に精力的な犬種であるため、十分な運動量が必要とされる。頑健な犬種ではあるが、幼犬期に顎の発育障害が見られることがあり、肥厚性皮膚疾患を発症することもある。 == 歴史 == イングランド王ジェームズ1世(在位1567年 - 1625年)の治世最初期の、白い被毛を持つスコットランドの犬に関する記録が残っている。フランス王への贈り物とするために、ジェームズ1世が12頭のテリアをアーガイルで産ませるように命じた記録である〔Bruette (1921): p. 191〕。当時はサンド(砂色)とブリンドル(虎毛)の被毛の犬が丈夫で、白い被毛の犬は虚弱だと考えられていた〔Smith (1921): p. 84〕。ウェスティの作出には、スコティッシュ・テリアやケアーン・テリアの白い被毛の犬が大きな役割を果たしたと考えられている〔。 スコットランド有数の名族であるキャンベル氏族の長だった第8代アーガイル公ジョージ・キャンベルは、ローズニース・テリアとして知られる白い被毛のスコティッシュ・テリアを繁殖させていた。また、白い被毛を持つ別系統のスコティッシュ・テリアとして、ファイフ出身のドクター・アメリック・エドウィン・フラクスマンが維持していたピッテンウィーム・テリアの系統がある〔。フラスクマンはスコティッシュ・テリアには白い被毛の系統は不要であるとして生まれた仔犬を処分していたが、もともとスコティッシュ・テリアには白い被毛の形質が受け継がれており、一種の先祖がえりで白い被毛をもつスコティッシュ・テリアが生まれるのではないかと考えるようになっていった。そしてフラクスマンは白い被毛を持つスコティッシュ・テリアの計画的作出を試みるようになり、暗色の被毛に比べて低い位置に貶められていた白いスコティッシュ・テリアの復権に力を注いだ。19世紀の終わりにはフラクスマンが出陳した白い被毛のスコティッシュ・テリアが、ドッグショーで高く評価されることもあった。 現在のウェスティの血統にもっとも大きな貢献を果たしたのは、ポルタロックの領主エドワード・ドナルド・マルコムである。マルコムは狩猟用にテリアを飼育していたが、あるときキツネと間違えて赤茶色のテリアを撃ってしまった。そしてこの過ちを悔いたマルコムは白い被毛を持つテリアの作出を決心したという言い伝えがある。そしてマルコムが作出した白色のテリアが領地にちなんでポルタロック・テリアと呼ばれるようになっていった。最初期のポルタロック・テリアの被毛の色はサンドで、すでに現在のウェスティの特徴といえる立ち耳を持っていた〔。ポルタロック・テリアとピッテンウィーム・テリアとが交配されたかどうかは明らかになっていない〔。1903年にマルコムはポルタロック・テリアの作出者として名前が知られることは望まないとして、自身が作出した白い被毛を持つテリアの名前をポルタロック・テリアから改名することを求めた。「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」という名称が最初に見られるのは、1908年に出版されたL.C.R.キャメロンの『カワウソとカワウソ猟 (Otters and Otter Hunting)』である〔。ウェスティの愛好クラブが最初に設立されたのは1904年で、初代の代表者には第10代アーガイル公ナイアル・キャンベルが就任した。続いて設立された二番目のクラブの代表者にはアバディーン伯爵夫人が選ばれ、後にエドワード・マルコムが2代目の代表者となっている。イギリスのザ・ケネルクラブがウェスティを独立犬種として承認したのは1907年で、同年にザ・ケネルクラブが主催したドッグショーのにも最初のウェスティが出陳された〔。また、ウェスティは1907年から1908年ごろにアメリカに輸出された。アメリカでは当初ローズニース・テリアとも呼ばれ、愛好クラブも「ローズニース・テリア・クラブ」として1908年にアメリカンケネルクラブに公認されたが、このクラブは翌年「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア・クラブ・オブ・アメリカ」に改称している〔Rice (2002): p. 5〕。さらにカナダのも、1909年にウェスティを公認している〔。ウェスティはイギリスでたちまちのうちに人気犬種となり (''in vogue'')、輸入されて間もないアメリカでも人気を博した〔。ウェスティはイギリスで1924年にケアーン・テリアやスコティッシュ・テリアなどとは別系統の純血種として登録された。マルコムが死去する1930年には、立ち耳、白い被毛、短躯といった、この犬種の特徴が確立されている〔。 ウェスティはヨーロッパ、北米ともに、主要なドッグショーで高い評価を得ている。ドッグショーで最初にチャンピオン犬となったウェスティは、1905年にコリン・ヤングがスコティッシュ・ケネルクラブ主催のショーに出陳した生後7カ月のモーヴァンである。ただしこのときのモーヴァンは、ウェスティではなくスコティッシュ・テリアとして登録、出陳されていた。これは当時のウェスティが未だ独立犬種とは認められていなかったためで、後にモーヴァンがウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアとして再登録されると、チャンピオン犬の称号は剥奪されてしまった〔。主要なドッグショーでチャンピオン犬となったウェスティは、1942年にニューヨークで開催されたにコンスタンス・ウィナントが出陳したウルヴィー・パターン・オブ・エドガーストーンで、このときにはショー全体の最優秀犬 (Best in Show) を受賞している。1962年にも同じ賞を、バーバラ・ウスターが出陳したエルフィンブルック・サイモンという名前のウェスティが受賞している。ウェスティがイギリスの主要なドッグショーで最優秀犬(ベスト・イン・ショー)となったのはキャス・ニューステッドとドロシー・テイラーが出陳したダイアンザス・ボタンズで、1976年に開催されたクラフツでのことだった〔''Dogworld: Digital Crufts Edition'' (2010): p. 84〕。その後、1990年開催のクラフツでもデレク・タッターサルが出陳したウェスティのオラク・ムーン・パイロットがベスト・イン・ショーを受賞している〔''Dogworld: Digital Crufts Edition'' (2010): p. 88〕。 20世紀初頭のウェスティの人気は高く、数百ギニーという高額で取引されていた〔Smith (1921): p. 85〕。2010年のイギリスでは5,361頭のウェスティの仔犬がザ・ケネルクラブに新しく登録されており、これはテリアとしては第3位の登録件数である。しかしながらテリア中第1位を記録した2001年の11,019頭からみると、ウェスティの登録件数は減少している。アメリカではウェスティの登録件数は1960年ごろ以来、登録犬全体の上位3分の1で安定している〔。アメリカンケネルクラブの登録件数は、2001年に30位、2010年には34位であり、この10年ほどは30位前後の登録件数となっている。日本のジャパンケネルクラブの登録件数は1999年が20位で、以降徐々に順位は下がっており2011年時点では31位となっている〔http://www.jkc.or.jp/modules/publicdata/〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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