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ウォシタ川の戦い(ウォシタかわのたたかい、英:Battle of Washita River、またはウォシタの虐殺、英:Washita Massacre)は、1868年11月27日に、アメリカ軍ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いる第7騎兵隊が、ブラック・ケトルを酋長とするシャイアン族インディアンのバンド(一団)の、ウォシタ川沿いのティーピー野営〔今日のオクラホマ州西部シャイアンの近く〕を奇襲したもの。 「戦い(Battle)」と名は付いているが、実情は米軍がインディアンの村を襲い、無抵抗のインディアンを無差別大量虐殺した民族浄化である。 == 背景 == 植民地政策を進めるアメリカ合衆国は、19世紀初頭にその勢力をミシシッピ川以西に拡げ、大平原地帯に侵略の手を伸ばしていた。この広大な大平原地帯は、略奪騎馬民族である「平原インディアン」の狩猟の場であった。トーマス・ジェファーソンやアンドリュー・ジャクソン、エイブラハム・リンカーンといった合衆国の指導者たちはインディアン民族をフロンティアの障害ととらえ、彼らを条約を基に指定保留地に強制隔離し、その領土を白人のためのプランテーションや入植地として強奪していった。 合衆国は東部や南東部の肥沃な農地を奪うために、多くのインディアン部族を強制的に西部大平原に移住させ、保留地内で合衆国の監督下に置いた。すでに大平原では、押し寄せる白人入植者によってバッファローが虐殺され、インディアンの自由な領土は風前の灯となっていた。カリフォルニアやロッキー山脈では金鉱が見つかり、これに群がる白人たちは幌馬車の列を作って、条約を無視してインディアンの保留地を通り、手当たり次第にバッファローを殺した。 バッファローや野生生物を追って大平原で移動生活を続けてきた、平原部族であるシャイアン族とアラパホー族は、「メディシンロッジ条約」に調印した後、合衆国が指定した保留地があるインディアン準州(今日のオクラホマ州)に強制移住させられた〔Medicine Lodge Treaty, 1867 〕。 この「条約の調印」とは、文字を持たないインディアンの任意の個人に「×印」を書かせたものである。インディアンにとって土地は誰のものでもなく、保留地で定住しろと言われて納得するインディアンはいなかった。 平穏に数か月間が過ぎた後の1868年夏に、カンザス州西部、コロラド州南東部およびテキサス州北西部の白人入植地を、南部シャイアン族、アラパホー族、カイオワ族、コマンチ族、北部シャイアン族、シチャングとオグララのラコタ・スー族、およびポーニー族の戦士団が襲撃した。カンザス州のソロモン川やサリーヌ川沿いの入植地攻撃は1868年8月10日から始まり、少なくとも15人の白人が殺され、負傷者もおり、何人かの女性は強姦されるか捕虜として連れて行かれた〔Moore 1897-01-19, p. 350.〕。 8月19日、カンザス州ライアン砦でシャイアン族とアラパホーー族のインディアン代理人を務めていたエドワード・W・ワインクープ大佐が、シャイアン族ブラック・ケトル・バンドのリトル・ロック酋長と会談した。リトル・ロック酋長はサリーヌ川とソロモン川沿いの襲撃について説明した。それに拠れば、ウォルナット・クリーク分岐点より上流に野営していたシャイアン族約200人の戦士団が、ポーニー族と戦うために野営地を離れたが、結果としてサリーヌ川とソロモン川沿いの白人入植地を襲撃することで終わったということだった。この襲撃の当事者の何人かが、ブラック・ケトル・バンドに投宿しており、リトル・ロックは彼らからこれを聞いたのだった。リトル・ロックはこの襲撃で最も 関わりの深い者の名前を挙げ、罪を負うべき者たちを白人当局に渡すために最善を尽くすことを約束した〔"Report of an interview between E. W. Wynkoop, US Indian Agent, and Little Rock, a Cheyenne Chief Held at Fort Larned, Kansas, August 19, 1868." Bureau of Indian Affairs, Cheyenne and Arapaho Indians. Published in U.S. Senate, ''Letter of the Secretary of the Interior, Communicating in Compliance with the Resolution of the Senate of the 14th ultimo, Information in Relation to the Late Battle of Washita River''. 40th Cong., 3d sess., 1869. S. Exec. Doc. 40. Available wholly or in part in Hoig 1980, pp. 47-50; Custer 1874, pp. 105-107; Greene 2004, pp. 52-53; Hardorff 2006, pp. 45-49.〕。 ちなみに、平原インディアンの社会での「酋長」とはあくまで「調停者」であり、他の戦士に対して酋長が、「白人が呼んでいるから行って来い」などと命令するような権利も習慣も彼らには存在しない。戦士たちがリトル・ロックに従わなくともそれは当り前のことである。リトルロックは和平の調停者として努力は約束するだろうが、それ以上の働きを彼らに要求するのは理不尽なことである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォシタ川の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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