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黄 飛鴻(こう ひこう )は清末民初の武術家、医師である。元の名は黄錫祥、字は達雲、幼名を黄飛熊と名乗る。原籍は広東省広州府南海県(現・仏山市)西樵嶺西禄舟村、嶺南武術宗師であり名医。 中国最後の王朝・清朝末期の時代に活躍した武術家で、中国近代史上では最大の英雄とされる。 == 年譜 == *道光27年(1847年) 広東南海で生まれる。 *咸豊3年(1853年) 5歳で父の黄麒英から武術を習い始める。 *咸豊9年(1859年) 父とともに佛山、広州、順徳など各地で武術を演じる。棍の達人を破り”少年英雄”の名を得る。 *咸豊10年(1860年) 13歳のとき、佛山豆豉巷で武術を演じているとき広東十虎の鐵橋三の高弟林福成の弟子となり、2年間学び鐵綫拳や飛鉈を習得する。 *同治2年(1863年) 広州に移り住み「寶芝林」館主となって第七甫で労働者たちに武術を教え始め、この後は見世物の武術を演じなくなった。 *同治4年(1865年) 広州の野菜、果物、魚の三組合から武術教練を依頼され、武術を教える。 *同治5年(1866年) 西樵官山で盗賊団に遭遇して一人で数十人の盗賊団を撃退する。 *同治6年(1867年) 西洋人が企画した「素手で猛犬を倒せたら賞金」の賭けに挑戦し無影脚で瞬殺、その名を轟かせる。 *光緒14年(1888年) 黒旗軍の劉永福に武術教官に招かれ、劉永福より「醫藝精通」の額を贈られる。 *民国13年(1924年) 広州城西方便医院で逝去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黄飛鴻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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