|
ウォーレン・エドワード・スパーン(Warren Edward Spahn , 1921年4月23日 - 2003年11月24日)は元メジャーリーグ投手。 == 経歴 == ニューヨーク州のバッファローで生まれ、1940年にボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)とプロ契約を結び、1942年にメジャーデビューを果たす。 しかし直後の1943年から1945年までの3年間は、兵役義務のために陸軍に従軍し、野球から離れる。この時ヨーロッパ戦線で負傷するも戦功を認められ、パープルハート章とブロンズスターメダルを受章した。 野球界復帰後は、その現役時代のほとんどでブレーブスに所属し、チームのボストンからミルウォーキーへの移転も経験する。ワールドシリーズには1948年、1957年、1958年に出場、1946年から1948年にかけては、もう一人の20勝投手ジョニー・セインと共に二本の大黒柱として活躍する。1947年には地元ボストンの新聞に「Spahn and Sain and pray for rain.(スパーンとセインで勝ったら、あとは雨(での試合中止)を祈れ)」という見出しが載るなど、両投手共に大車輪の活躍で、1948年にはチームを34年振りのリーグ優勝に導いた。なお、1953年には投手として初めて年俸10万ドルを手にするが、これは、スパーンが観客動員に応じたインセンティブ契約を球団と結んでいたところ、チームがミルウォーキーに移転して飛躍的に観客動員が増加したためである。 1965年にニューヨーク・メッツとサンフランシスコ・ジャイアンツに所属し、同年にメジャーリーグからは引退するが、その後数年間はメキシカンリーグでも投げた。現役21年間のうち年間20勝以上を13回達成し、そのうち42歳のときに23勝を記録するなど、息の長い活躍を続けた。通算勝利数363は左腕投手としては歴代1位であり、全体でみてもサイ・ヤング(511)、ウォルター・ジョンソン(417)、ピート・アレクサンダー(373)、クリスティ・マシューソン(373)、パッド・ガルヴィン(364)に次ぐ歴代6位の実績を誇る。 1973年に野球殿堂入りを果たす。現役時代、セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルがスパーンを評して、「スパーンは絶対に殿堂入りする事はないだろう。なぜなら彼はずっと投手であり続けるからだ。」という発言をしており、一面でそれを裏付けるような長い現役生活の末の殿堂入りだった。また、ブレーブスを退団した1965年には、スパーンの背番号『21』はブレーブス初の永久欠番となっている。 1975年、53歳の時、日本プロ野球史上初めての外国人監督として広島東洋カープを指揮する事になったジョー・ルーツの招きにより、広島東洋カープの春季キャンプ(日南キャンプ)で臨時投手コーチを勤めた。丁寧で解りやすい指導は非常に好評であり、その年球団創設25年目にして初のリーグ優勝を飾った投手陣に大きな影響を与えた。臨時コーチであったスパーンは、開幕戦を見届けた後、帰国している。 1999年、スポーティング・ニュース紙の企画「偉大な野球選手100人」において第21位に選出され、20世紀選抜チームにも選ばれた。同年にはシーズンで最も活躍した左腕投手に送られる賞として、「ウォーレン・スパーン賞」が設立された。 2003年11月24日、余生を過ごしていたオクラホマ州ブロークンアローの自宅にて、老衰により82年の生涯を閉じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォーレン・スパーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|