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ウガリット(ウガリット語: ugrt 、)は、地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラ(رأس شمرة、Ras Shamra、ラタキアの北数km)にあった古代都市国家。当時の国際的な港湾都市であり、西アジアと地中海世界との接点として、文化的・政治的に重要な役割を果たしたと考えられている。紀元前1450年頃から紀元前1200年頃にかけて都市国家としての全盛期を迎えた。この遺跡から見つかった重要な文化には、独自の表音文字・ウガリット文字と、ユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型ともいえるウガリット神話集がある。 == 歴史 == ウガリット一帯には、既に新石器時代には人間が居住していたとみられる。紀元前6000年頃には重要な場所であり、集落全体を壁で囲い、守りを固めていた。後にメソポタミアと文化的に交流が始まり、紀元前3千年紀後半からは西セム人の都市国家として繁栄、紀元前18世紀にはフルリ人もこれに加わった。 文字資料にウガリットの名が初出するのは、近くの遺跡エブラから発見された紀元前1800年頃の粘土板文書である。ウガリットは紀元前16世紀頃よりエジプトの影響圏に入り、政治・軍事・文化的にエジプトの影響が浸透し、エジプト人守備隊が駐屯していたこともある。ウガリットがエジプトと接触した最古の証拠は、ウガリットからの出土品のうちの紅玉髄のビーズで、エジプト第12王朝の(紀元前1971年 - 紀元前1926年)からのものと判断された。また、からの石碑や像も出土している。ただし、これらの遺物がエジプトからもたらされた年代が、これらのファラオたちの治世と同時期なのかどうかについては定かではない。シリア方面からエジプトにヒクソスが侵入した時期(紀元前17世紀ごろ)には、ウガリットもこれに関係するとみられる民族の手に落ち、エジプト風の記念碑などは破壊された。 紀元前16世紀から紀元前13世紀にかけてのウガリット全盛期、エジプトやキプロスとは緊密な外交関係があった。紀元前1350年頃にウガリットの王族(紀元前14世紀中期のウガリットの王アンミスタムル1世、ニクマドゥ2世、およびその妃)がエジプトへ出した書簡がエジプトのアマルナから発見されている(アマルナ文書)。アマルナ文書によると、紀元前14世紀半ば頃に市街は大火によって破壊されたが、再びエジプトの影響下の貿易都市として復興したことがうかがえる。 紀元前13世紀初頭にはエジプト・ヒッタイト間でシリアをめぐる勢力争いがあったが、この際にはヒッタイト側に立った。ヒッタイトのシュッピルリウマ2世(紀元前13世紀後半)と同時代にウガリットにはという王がいたことが分かっているが、その治世がいつからいつまでであるかは定かではない。 この時代の市内外からは多くの墳墓が発見され、その副葬品によってウガリットにはキュプロス、クレタ島、ミュケナイなどエーゲ海周辺の出身者が住んでいたことが知られる。出土品には、土器や金属製武器、金属器、象牙製品、アクセサリー類があったが、その他の目立つものに神像や奉納石板があり、それらは祭司長の家の文書館から出土した粘土板文書中の宗教文学の内容に対応している。 ウガリットは青銅器時代の末期、紀元前1200年ごろ、「海の民」の侵入によって破壊された。ウガリット遺跡のうち、街の破壊の跡が残る層からはヘラディック期(古代ギリシャの青銅器時代)後期IIIBの土器(Late Helladic IIIB)が発見されているが、ヘラディック期後期IIIC(ミケーネ文明)の土器は発見されていない。ウガリットの破壊の年代は、後期ヘラディック期の土器の年代推定にとって重要である。また破壊された時期の地層からはエジプト第19王朝のファラオ・メルエンプタハ(在位紀元前1212年 - 紀元前1202年)の銘のある剣が見つかっており、後期ヘラディック期IIICの開始年代はメルエンプタハの治世より後の紀元前1190年と推定されている。1986年に発見された楔形文字文書によればウガリットの破壊はメルエンプタハの死後であり、ウガリットの破壊は紀元前1202年から紀元前1190年の間(おそらく紀元前1195年)とみられている。エジプト第20王朝のラムセス3世(紀元前1186年 – 紀元前1155年)の治世8年目にはすでにウガリットは破壊されていた。 地中海からメソポタミアに至る広い範囲の文明が、この時期に「海の民」によって破壊された。ヒッタイトの首都ハットゥシャの破壊がウガリットの破壊より前か後かも論争の的となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウガリット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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