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ウガンダ人民会議 (Uganda People's Congress, UPC) はウガンダの政党。 ウガンダ人民会議は後にウガンダの大統領となるミルトン・オボテにより1955年に結成された。オボテは辞任の意向を示したものの2005年10月に亡くなるまでUPCの総裁だった〔"Uganda's exiled ex-president Obote to retire from party's presidency ", ''Xinhuanet'', Aug 28, 2005.〕。UPCは1971年にオボテがイディ・アミンに打倒されるまでウガンダにおける政権党であった。1980年にオボテが再度政権を獲得した際にも1985年にティトー・オケロに打倒されるまで与党であった。 2005年11月28日オボテの未亡人のミリア・オボテがUPCの新総裁に選ばれた。ミリアは2006年の大統領選挙に出馬した。UPCは289議席中の9議席を獲得した。ミリアは0.82%の得票だった〔『アフリカ情報通信』Africa Newsletter Vol.3 No.01 , 2006年3月23日。〕。 == ウガンダ独立期 == 1940年代から1950年代の独立運動期に南部の最大民族ガンダ族は自治の拡大を求めていた。ブガンダの王党派カバカ・イエッカ(KY, 王のみ)も同じだった。しかしその他の民族が同様に望んでいる訳ではなかった。教育を受けたエリートによる民主党は国民統合を掲げた。民主党はブガンダでは支持されなかったが、その他の南部のバントゥー系に支持された。また民主党指導部はカトリック系でプロテスタントが多数派のガンダ族と対立した。 そうした中1952年にウガンダ民族会議 (UNC) が結成され、オボテが代表となり東部で支持を拡大した。UNCは連携相手の他党を取込んでウガンダ人民会議となった。KYとUPCと民主党が独立前の第1回選挙で争った。予想通り、KYが(ボイコットを呼びかけていたが)南部の大半の議席を、UPCが東部と北部の大半の議席を獲得した。それでも第一党はベネディクト・キワヌカ率いる民主党であった。キワヌカが初代首相となったが、独立までにKYとUPCの連立でオボテと交替した。 カバカは民主党が近代化を掲げ君主制を廃止するのではと恐れた。オボテは選挙で敗れ連立が権力への道であると悟った。オボテはムテサ2世に王権の維持と新政権での儀礼的役割を約束した。KY/UPC連立によりオボテはウガンダ独立時の初代首相となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウガンダ人民会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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