|
ウクライナ民族主義者組織(ウクライナ語:''Організація Українських Націоналістів''、英語:Organization of Ukrainian Nationalists、OUN とも)は、ウクライナに存在した反体制武装組織。1929年1月28日にオーストリアのウィーンで結成〔中井 1998:040.〕。 ==概要== 1920年に、チェコスロヴァキアのプラハで亡命ウクライナ人によって反ポーランド組織、ウクライナ軍事組織(Українська військова організація:UVO)が結成されイェヴヘーン・コノヴァーレツィ(Євген Коновалець)が指導者となったが1929年には、学生組織と合同して新たに「ウクライナ民族主義者組織」となった。 OUNは、一時2万人の組織員を抱え、ポーランドやソ連の要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行うとともに、さまざまな宣伝活動や啓蒙活動も行った。代表例としては、1934年6月15日には、ポーランド内務大臣ブロニスラフ・ピエラキ(Bronisław Pieracki)をワルシャワにて暗殺した。 しかし、1938年5月23日にOUNに潜入していたNKVD諜報員パヴェル・スドプラトフによってコノヴァーレツィが暗殺されると、組織はアンドリーイ・メーリヌィク(Андрій Мельник)の派閥とステパーン・バンデーラの派閥とに分裂し互いに武力闘争をおこなった。 独ソ戦が開始しドイツ軍がウクライナを占領すると両派とも当初は歓迎した。だが、1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは両派の指導者を逮捕し武力でこれを押さえ込もうとした。組織は地下に潜り1942年に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)のもとに再び集結し、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しいパルチザン活動を行った。 日本とは1930年代に満州の亡命ウクライナ人を通じて接触があったが軍部が白系ロシア人のロシアファシスト党を支援するようになると打ち切られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウクライナ民族主義者組織」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|