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アシュケナジム(アシュケナージム、Ashkenazim , אשכנזים)とは、ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫を指す。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズ(新共同訳や新改訳での表記。口語訳ではアシケナズと表記)である。単数形はアシュケナジ(Ashkenazi, אשכנזי)。 アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。イスラエルでは一般に、前者がヨーロッパ系ユダヤ人、後者が中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合があるが、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒」(Yahudei ha-Mizrah)がセファルディムの主席ラビの管轄下に置かれていたことに起因する〔臼杵陽「スファラディーム・ミズラヒーム研究の最近の動向 -雑誌『ペアミーム』を中心にして-」 〕。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえない。 == 歴史 == ディアスポラ後も、ユダヤ人のほとんどは地中海世界(のちのイスラム世界)に住んでいた。それに対し、アルプス以北におけるユダヤ人の起源ははっきりしない。7世紀に中央アジア西部のコーカサスからカスピ海北岸にいたハザール王国の住民とされ、ヨーロッパに西進し移住したわずかのコーカソイドの一派のユダヤ教徒の子孫だとする説、またはローマ時代イスラム世界から商人としてヨーロッパを訪れたとする説、イタリアからアルプスを越えてやって来たとする説などあるが、単一の起源ではないかもしれない(一部に、9世紀頃に民衆がユダヤ教に集団改宗した黒海北岸のハザール汗国の子孫だとする主張が見られる。しかしハザールの使用言語はテュルク諸語であった点など歴史的な状況を考えると色々無理があり学問的根拠に乏しく、まともな学説とは見做されていない)。いずれにせよ、8世紀から9世紀には北フランスにアシュケナジムらしきユダヤ人の記録が見える。まもなく彼らは、ドイツ中部のライン川(ライン地方)、ブリテンなどにも広がった。 彼らは当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業へと移行した。「ユダヤ人高利貸」というステレオタイプはこのようなキリスト教社会でのユダヤ人の職業に由来し、これに対しイスラム社会のユダヤ人にはこのような傾向はなかった。 彼らは西欧にも定住したが、1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも迫害されたりした。 追放された彼らの多くは東方へと移民した。まずはオーストリア、ボヘミア、モラヴィア、ポーランドなどの地域へ移住し、ポーランド王国は1264年に「カリシュの法令」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。当時ドイツ人の東方植民時代で、国王による都市化促進政策の一環として、ユダヤ人もドイツ人と一緒に招聘された。ユダヤ人などもポーランドで(ドイツの)マクデブルク法により商業的に有利な優先的条件と権利を保護されていた為にユダヤ人にとり魅了があったため移民した〔http://jewishhistorylectures.org/2013/12/05/origins-of-polish-jewry-this-week-in-jewish-history/〕。ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を勤めポーランド経済の柱となり、ポーランドで最初の硬貨発行(ヘブライ語が印刻)などに携わった〔The Polish Jews Heritage – Genealogy Research Photos Translation". polishjews.org. 2009. Retrieved September 30, 2015.〕)。ポーランドはユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らはのちにポーランド・リトアニア共和国の全地域へと拡散した。ポーランド王国は当初彼らを、チュートン騎士団等ドイツ人勢力との結びつきが強いドイツ人移民に代わる専門職移民として歓迎した。彼らのなかにはポ・リ共和国で成功し、金融業や商人、地主や貴族階級(シュラフタ)になったりした、そしてヨーロッパで始めて農業を営んだりする者もいた国だった事などが西欧に住み続けたユダヤ人たちと異なる。 中世末期の欧州では、諸国の王がその時々の利得をはかって、ユダヤ人にしばしば保護を与えていた。これは予告なく撤回もされるものだった。アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)のポーランド移住の初期における身分は、そのような政策の特徴をよく示している。ヴィースラ川の王国(ポーランド王国)にやってきたユダヤ人は、祖国で享受していたものと同等とされる特典をいくつか与えられた〔http://www.diplo.jp/articles11/1101-2.html ル・モンド紙(2011年1月)〕。 1264年にカリーシュのボレスワフ公が、マグデブルクの勅令を範として彼らに与えた身分は、その典型であり、後代に各地で模倣された。この制度のもと、ユダヤ人社会は、その宗教と「民族的出自」ゆえに、特殊な社会集団としてコミューン(ヘブライ語で「ケヒラ」)を組織し、内部自治を行うことが認められていた。ユダヤの人間と財産は君主の所有物(servi camerae)であるとされ、これを害するものは君主の財産を害するものと見なされた〔http://www.diplo.jp/articles11/1101-2.html ル・モンド紙(2011年1月)〕。 1334年、ポーランド王カジミエシュ三世により、この制度は王国全体に広められた〔http://www.diplo.jp/articles11/1101-2.html ル・モンド紙(2011年1月)〕。 1388年には、リトアニア王ヴィータウタスもそれに倣った。この移民誘致策に下心がないということはなく、「庇護民」を搾取するのは当たり前となっていた。それが高度に磨かれると「海綿しぼり法」が用いられる。表向きは、気前よく特典と保証をふるまって、他国で迫害されているユダヤ人を引き寄せる。彼らが十分に繁栄し、金を蓄えたころを見はからって、国外に追放し、財産と利権を取り上げる。またユダヤ人たちに、戻ってきて、剥奪された財産と特典を買い戻さないかと持ちかけた〔http://www.diplo.jp/articles11/1101-2.html ル・モンド紙(2011年1月)〕。 フランス革命による平等思想の啓蒙や、ポーランド分割による国境の消滅により、アシュケナジムの中にはふたたび西欧に戻ったり、新大陸へと移住したりするものも現れた。しかしその大多数は現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ西部(ガリツィア)の三地域に居住した。 19世紀末から20世紀前後にロシア帝国のポグロムや反ユダヤ政策、ヨーロッパ諸国での反ユダヤ主義勃興により、ユダヤ人自身の国民国家を約束の地に建国することを求めるシオニズムの思想が生まれ、ポーランドやロシアなど東欧からオスマン帝国領のパレスチナに入植する人々が現れた。 ドイツではナチスが台頭し、多くのユダヤ系ドイツ人がアメリカ合衆国やイギリス委任統治領パレスチナに逃げるように移住していった。ドイツとソ連によるポーランド侵攻が起きてポーランドが占領され、ポーランドを含むヨーロッパのユダヤ系の人々はナチス・ドイツが引き起こしたホロコーストにより多くが死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アシュケナジム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ashkenazi Jews 」があります。 スポンサード リンク
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