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アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国政府によって、2001年9月11日(以下、日付・時間はいずれもアメリカ東部夏時間 (EDT) )に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。 同国による大規模な捜索にもかかわらず拘束することができないまま10年近くが経過したが、2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、パキスタンにおいてアメリカ軍によりウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。 複数のメディアが深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領がホワイトハウスから会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した〔Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT 〕〔ビンラディン容疑者が死亡、米大統領演説へ 日本時間2011年5月2日午後12時8分〕。 == 経緯 == 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカ政府はアフガニスタンのターリバーン政権に対して首謀者であるウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同年10月7日にアフガン戦争が開始された。ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの国境地帯にある山岳などを捜索してきた。しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった。 対テロ戦争を始めたアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が2009年1月にオバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、アメリカ中央情報局 (CIA) がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。 2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った〔。これと相前後して、情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った〔“Getting Bin Laden” ビン・ラーディン殺害作戦までの経緯を報じた雑誌『ザ・ニューヨーカー』の記事。〕。アボッターバードはパキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居はパキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、BBCはパキスタン軍統合情報局(ISI)がビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている〔John Ware. "Pakistan defends Bin Laden role". BBC NEWS.http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-13259820. Retrieved May 3, 2011.〕。この情報はオバマ大統領にも報告された。 これはアメリカ政府内でもごく限られた人間のみが知りうる極秘情報として取り扱われた。その後も調査は続き、2011年3月中旬から4月28日にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5-6回開催される〔。オバマは5回目の会議翌日の4月29日に作戦決行の許可を出した〔。作戦名は「Operation Neptune Spear(海神の槍作戦)」とされ、作戦の中ではビン・ラーディンの名は暗号名「ジェロニモ」に置き換えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Death of Osama bin Laden 」があります。 スポンサード リンク
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