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ウジェーヌ・ボードゥアン(Eugène Beaudouin 1898年7月20日 - 1983年1月14日)はフランスの建築家で都市計画家。両次世界大戦間における近代建築の先覚者。「栄光の三十年」と呼ばれた第二次大戦後の長期経済成長期の多数の大建築プログラムの起源に位置する。 == 経歴 == 建築家であった父レオンと母マリー(旧姓デュラン)のあいだの子として、1898年7月20日パリに生まれる。画家ジョゼフィーヌ・カユザクと結婚。エコール・デ・ボザールのエマニュエル・ポンルモリのアトリエで研鑽を積んだ後、1928年にローマ賞を受賞。1929年から1932年にかけてヴィラ・メディシスに滞在。この期間、イタリアにとどまるだけに満足せず、アトス山の修道院群やイスファハン市街地の見学調査もおこなう。 父の遺産を相続後、1930年にマルセル・ロッズとの協働開始。彼らは技師ヴラディミール・ボディアンスキーおよびジャン・プルーヴェと協力して、集合住宅、建造物の工業化およびプレファブの問題にとりくむ。1940年まで続いたこの協働関係のなかで、フランスにおける近代建築の先駆けと考えられている一連の建物を実現する:セーヌ公共住宅局の田園都市(cités-jardins)建設の枠組みにおけるドランシーのシテ・ド・ラ・ミュエット 、スュレーヌ野外学校(アンリ・セリエの依頼)およびクリシィの人民の家。 彼は並行して都市計画家の経歴も歩み、ハバナ都市計画(1928)、パリ地方の整備のためのプロスト計画(1934)に従事。彼はこうした活動をマルセイユ(1941年から1943年まで)、モナコ、サイゴン、トゥーロン、モンペリエ、クレルモン=フェランの復興計画の枠組みのなかで戦後も続ける。 第二次世界大戦後、国有・公共建造物主席建築家に就任、国際的にも認められ、大使館、社会住宅、高校、行政機関の建物など、多数の公共建築プロジェクトを実現するよう要請される。1951年に建造物の工業化方法を発展させる目的で政府によって実施されたストラスブールのシテ・ロッテルダムの設計競技で一位入選。レ・マンゲットの優先市街化区域(ZUP)およびパリのメーヌ=モンパルナス地区の都市計画も担当。 ボードゥアンはジュネーヴ大学建築学院(École d'architecture, 現在はInstitut d'architecture)学院長、つぎにボザール教授そして研究室長(1946年から1968年まで)になり、1952年から1968年には、公立アトリエ・パトロンをつとめ、そこでフェルナン・プーィヨン、フランソワ・シュペーリ、クリスティアン・ド・ポルザンパルク、アントワーヌ・グランバック等を指導する。1961年にアカデミー・デ・ボザール会員になり、1958年から1966年までフランス都市計画家協会会長、そして国際建築家連合会長に選出(1960年から1964年まで)。 彼のアーカイヴ資料の一部がフランス建築研究所 に保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウジェーヌ・ボードゥアン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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