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呉 鶴齢(ご かくれい)は中華民国の政治家。モンゴル族。モンゴル名は、ウネンバヤン(Ünenbayan)。字は梅軒。 == 事跡 == 熱河承徳師範を経て、1917年(民国6年)、北京政法大学を卒業した。その翌年には北京大学に入学した。その一方で北京政府内務部に勤務し、科爾沁右旗王グンサンノルブ(貢桑諾爾布)の蒙蔵事務処での職務も補佐した。さらに、北京高等師範学校でも勤務し、北京基督教青年会副総幹事もつとめている。1926年(民国15年)、北京大学を卒業し、まもなく中国国民党に加入した。 1929年(民国18年)4月、蒙旗駐北平弁事処主任兼国民政府蒙蔵委員会参事となる。翌年1月、蒙蔵委員会蒙事処処長に異動した(1932年6月より参事に戻る)。1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員兼蒙蔵委員会委員に任命される。9月、蒙古地方自治政務委員会参事庁参事長に任ぜられた。 1936年(民国25年)5月、ユンデン・ワンチュク(雲王)、デムチュクドンロブ(徳王)らが蒙古軍政府を樹立すると、呉鶴齢もこれに参加する。参議部部長兼総裁幇弁に任命され、総裁のデムチュクドンロブを補佐した。また、蒙古生計会会長にも任ぜられている。翌年10月、蒙古聯盟自治政府参議会議長に任命された。 1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府)参議会参議となる。翌年、李守信の後任として議長に昇格した。1941年(民国30年)春には、蒙古自治邦政府政務院院長に任ぜられている。その後、蒙古留日予備学校校長もつとめた。 日本敗北後は、国民政府に復帰し、軍事委員会蒙古宣動団主任に任命されている。1949年(民国38年)、西モンゴル自治運動に参加したが、後に台湾へ逃れた。 1980年、死去。享年85。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉鶴齢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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