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ウマル・ハン ウマル・ハン(? - 1822年)は、コーカンド・ハン国の君主(在位:1810年頃 - 1822年)。ナルブタ・ビーの子でアーリム・ハンの弟にあたる。ウマル・ハンの時代にコーカンド・ハン国は最盛期を迎えた〔小松「ウマル・ハーン」『岩波イスラーム辞典』、202頁〕〔河原「ウマル・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』、82-83頁〕。 == 生涯 == 1809年2月から3月の間、ウマルは兄のアーリム・ハンの命令を受けてカザフ・ハン国が領有するタシュケントを陥落させ、タシュケントとホジェンドの中間に位置するクラマ地方に駐屯した〔佐口「コーカンド汗国の東方貿易」『18-19世紀東トルキスタン社会史研究』、385-386頁〕。アーリム・ハンがウズベクの部族長達の反乱によって廃位された後、ウマルがコーカンド・ハン国の君主となった〔バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、277頁〕。 即位したウマル・ハンはフェルガナ盆地を本拠地としてブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)と中央アジアのオアシス地帯の支配権を巡って争い、カザフ草原南部に勢力を拡大する〔。1815年/16年にコーカンド・ハン国はホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟が建てられているテュルキスタンを占領し、カザフ草原に進出した〔。ウマルは戦勝を記念して「アミール・アル=ムスリミーン(ムスリムの長)」の称号を使用し、「アミール・アル=ムウミニーン」を称するブハラのサイイド・ハイダル・トゥラに対抗した〔。その一方でブハラ・アミール国と一時的に友好関係を築いていたため、ウマルの治世に一時的にコーカンド、ブハラ、ヒヴァのウズベク三ハン国に政治的安定が訪れた〔。 ロシア帝国、清には通商の拡大を求め、オスマン帝国には臣従を申し出た〔。清に対しては1813年と1820年の2度にわたってカシュガルに駐在するコーカンド商人からの徴税権と代官の設置を要求したが、ウマルの要求は却下された〔佐口「コーカンド汗国の東方貿易」『18-19世紀東トルキスタン社会史研究』、389-392頁〕。
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