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ウラジーミル1世[うらじーみる1せい]
ウラジーミル1世()、ヴォロディーミル1世(、)955年頃 - 1015年7月15日)は、リューリク朝、キエフ大公国のキエフ大公(在位:978年6月11日 - 1015年7月15日)。スヴャトスラフ1世と侍女マルーシャの子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キエフ大公国をキリスト教化した。キリスト教(正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人で、亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は7月15日(7月28日)。「太公」、「聖公」、「赤日」とも呼ばれる。 == 前半生 == 父スヴャトスラフ1世存命中からノヴゴロド公に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の975年に長兄ヤロポルクが次兄オレーグと争い、殺害にいたると〔田中・倉持・和田 (1995), p73〕、977年ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡した。37歳の時〔『ルーシ年代記』. 6360年 (852).〕、ノルマン人(ヴァリャーグ)人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、キエフ大公として即位した。『ルーシ年代記』による即位年は980年であるが、11世紀後半の書『』によると、978年となっている〔''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую'' , ПВЛ. Год 6360 (852).〕。ウラジーミル1世が37歳になったのは978年であるため、980年説は成立しない。しかし、多くの書物では980年説は定説となっている。 即位過程で、ポロツクを滅ぼし、公女ログネダを略奪して妻とした〔田中・倉持・和田 (1995), p74〕。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。981年にヴャチチ族、984年にラヂミチ族を従属させた〔田中・倉持・和田 (1995), p75〕。モスクワの東に位置するウラジーミルの町やヴォルィニ地方のウラジーミルは彼が建設したとされる。 内政においては、ノルマン系のルーシ族の植民を奨励する一方で、980年頃、ルーシに伝統的な異教信仰を基盤に据えた国制改革を行ったとされる。伝統的なルーシの異教信仰に近隣諸民族の神を加えた大規模な祭祀を行ったが失敗した。こうして、数年後のキリスト教導入に至る。987年に10人の家来たちに各宗教を調査させた報告を聞き、また祖母オリガの洗礼に続き、988年に彼も洗礼を受けた。そして異教の偶像を破壊するよう命じた〔黒川知文『ロシア・キリスト教史』教文館〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウラジーミル1世」の詳細全文を読む
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