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エイモス・チュツオーラ(Amos Tutuola, 1920年6月20日 - 1997年6月8日)は、ナイジェリアの小説家。『』などヨルバ人の伝承に基づいた、アフリカ的マジックリアリズムと言われる著作で知られる。 == 生涯 == チュツオーラはナイジェリアアベオクタにおいて、ヨルバ人の両親チャールズとエスターの元で生まれる。両親はともにココア園の農夫でありキリスト教徒だった。 7歳の時イボ人のF.O. Monuの使用人になり、給料の代わりとして10歳から救世軍の小学校へ行き、12歳でアベオクタのアングリカン中央学校へ入学。 1934年にMonuの転勤に伴ってラゴスへ移り、ラゴス高等学校に通うが、1936年にアベオクタの救世軍学校に戻る。 1939年父親の死に伴い学校を辞める。このためチュツオーラの教育は僅か6年間の短いものだった。 学費の捻出が果たせなかったため鍛冶屋の技術を身に付け、1942年から1945年までナイジェリアのイギリス空軍で働く。ビルマでの後方勤務なども経て、第二次世界大戦終戦とともに職を失い、パン売り、ナイジェリア労働省のメッセンジャーなど、多くの職に就いた。 1946年に仕事の合間を利用してほんの数日で『やし酒飲み』を書き上げ、出版社に持ち込むが断られ、代わりに紹介されたロンドンのFaber and Faberから1952年に出版され西欧の文学界で注目される。 1947年ヴィクトリオ・アラケと結婚し、4人の息子と4人の娘をもうけた。 最初の3冊で国際的に有名となり、1956年ナイジェリア放送協会に就職する。 1957年イバダン大学のコリンズ教授とともに『やし酒飲み』の劇作化の作業を行うため、西ナイジェリアのイバダン支局長に移り、劇は1958年に完成。1962年にイバンダ大学、ガーナ大学などで上演された。この間、作家・出版者の団体ムバリ・クラブ(Mbari Club)の設立委員も勤めている。 1976年ナイジェリア放送協会を退職し商売に転じる。1979年イレ=イフェ(Ile-Ife)のイフェ大学(現)から招かれて客員作家となり、客員研究奨学金制度を開いた。1981年14年ぶりの長編小説『薬草まじない』を発表。1983年アイオワ大学で国際創作プログラムの準会員となる。退職後イバダン、Ago-Odoの両方で暮らした。1997年高血圧と糖尿病により77歳で死去、ナイジェリアでは国民的英雄の死として大きく報じられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エイモス・チュツオーラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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