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エカチェリーナ・イオアノヴナ : ウィキペディア日本語版 | エカチェリーナ・イオアノヴナ
エカチェリーナ・イオアーノヴナ()またはエカチェリーナ・イヴァーノヴナ(, 1691年10月20日 - 1733年6月14日)は、ロシアの女性皇族。ツァーリ・イヴァン5世(イオアン5世)と妃プラスコヴィヤ・サルトゥイコヴァの間に生まれた3女。初代ロシア皇帝ピョートル1世の姪、女帝アンナの姉、イヴァン6世の祖母にあたる。ツァレーヴナの称号を有した。 エカチェリーナは小柄で、黒髪と白皙の肌を持つ美しい王女であった。また魅力的かつ社交的な性格で、ロシア宮廷の花形だった。1716年、エカチェリーナはダンツィヒでメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトと結婚した。この縁組は叔父ピョートル1世が大北方戦争でメクレンブルクを反スウェーデン同盟に引き込むため、成立させたものだった。ピョートルはメクレンブルクの海港をロシア艦隊の停泊港にするつもりだったのである。最初、カール・レオポルトはエカチェリーナの妹アンナに求婚したが、ピョートル1世はエカチェリーナをメクレンブルク公に押し付けた。 1718年には一人娘エリーザベト(アンナ・レオポルドヴナ)が生まれたものの、公爵夫妻の結婚生活は不幸なもので、やがてカール・レオポルトは妻に暴力を振るい出した。たまりかねたエカチェリーナは1722年、幼い娘を連れて母国ロシアに逃亡した。公爵夫妻は離婚することはなかったが、その後二度と会うことはなかった。 1730年にピョートル2世が急死した際、エカチェリーナは最初に後継候補に挙がったが、彼女の夫カール・レオポルトがロシアに影響力を及ぼすのを恐れた最高枢密院は、エカチェリーナの妹アンナを女帝に選んだ。1733年5月12日、エカチェリーナは娘が正教に改宗してアンナ・レオポルドヴナと改名する儀式に立ち会った。この改宗は彼女の娘がアンナ女帝の後継者になることを意味していた。エカチェリーナは娘の改宗を見届けた1か月後に亡くなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エカチェリーナ・イオアノヴナ」の詳細全文を読む
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