|
エスパース・レオポルド(, )は、ベルギーのブリュッセルにある、欧州連合の立法機関である欧州議会が入るビル群。 エスパース・レオポルドは複数のビルで形成されているが、その中でもっとも古いものはポール=アンリ・スパーク・ビルで、議場や議長執務室がある。またアルティエロ・スピネッリ・ビルはエスパース・レオポルドのなかでももっとも新しい建物である。これらのビル群はブリュッセル市の東に位置するウロップ地区にあり、1989年に着工されたものである。 欧州議会の正式な所在地はフランスのストラスブールにあるルイーズ・ウェイス・ビルであって、エスパース・レオポルドではない。しかしながら欧州連合の諸機関の多くがブリュッセルに所在しており、欧州議会は他機関との活動に接しやすくするためにブリュッセルにビル群を建設したのである。議会の機能の多くはブリュッセルでなされているが、法令上はストラスブールが正式な所在地とされている。 == 沿革 == 欧州議会は各国の首脳のあいだで単一の所在地を決めることができていないため、ブリュッセルと、法定上の所在地であるストラスブールの両方において完全に整備された施設を求めていた。ブリュッセルでは1987年にソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジックや BACOB がプロジェクトに参加して国際会議場を建設したが、この会議場は一部では欧州議会のビルとして考えられていた。建設計画地は老朽化したビール工場や鉄道操車場の跡地に設定され、ブリュッセル=リュクサンブール駅からは歩行者区域を設けることもあわせて決められた〔European Commission publication: Europe in Brussels 2007〕。ビル建設計画は1988年までに本会議室の着工がなされたことにより動き出し、1989年には北側の建物が、1992年には南側の建物がそれぞれ着工されていった。 政策関連の各委員会、加盟国議会の代表団、各政治会派はエスパース・レオポルドで会合を開いている。そのため欧州議会の対内関係事務局と対外関係事務局、そして政治会派がすべてエスパース・レオポルドに集まっている。1991年にスピネッリ・ビルが着工され、1997年に完成した。また拡張計画の最終段階である、リュクサンブール広場に向かってトレヴェ通り / トリーア通り沿いに建設されていたアンタル・ビルとブラント・ビルが2008年にそれぞれ完成した。 アンタル・ビルとブラント・ビルの完成によりエスパース・レオポルドは十分な広さを確保することができ、むこう10年から15年は新しいビル建設計画は不要と見られている。このため欧州議会の活動の4分の3がストラスブールではなくエスパース・レオポルドで行われている。 2008年、トレヴェ通り / トリーア通りとリュクサンブール広場に沿って建設される拡張計画が完了した。これらのビルはもともと D4、D5 と呼ばれていたが、誰の名前を付けるかということについて議論となった。ヨハネ・パウロ2世の死去を受けて、ポーランド出身の欧州議会議員は新しいビルに教皇の名前を付けようと動いていたが、政教分離の観点と教皇が欧州議会に寄与していないという点から反対された。議員の間からはヴァーツラフ・ハヴェル、ネルソン・マンデラ、オロフ・パルメ、ヤン・パラフ、マーガレット・サッチャーの名前が挙げられたほか、ポーランドの大統領レフ・カチンスキと同国元首相のヤロスワフ・カチンスキの双子の兄弟にちなんで「カチンスキ・タワーズ」というものも挙げられた。2008年1月に新しいビルの名前が最終的に決められ、1969年から1974年まで西ドイツの連邦首相を務めたヴィリー・ブラントと、1990年から1993年までハンガリーの首相を務めたアンタル・ヨージェフの名前を付けることになった。この2つのビルと既存のビルとをつなぐ橋には、1949年から1963年まで西ドイツの連邦首相を務めたコンラート・アデナウアーの名前が付けられた。また議会のプレスルームには暗殺されたロシアのジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤの名前が付けられた。 2008年9月、欧州議会は初めてブリュッセルで定例の本会議を開いた。これはストラスブールの本会議場の天井の一部が崩落したことにより、一時的に議場を移すことを余儀なくされたためである。 2009年1月14日、欧州議会はビル内にある部屋に、近年死去した議員の名前を付けることを決定した。議会図書館の読書室にフランシスコ・ルーカス・ピレス、調停委員会の会議室にレンゾ・インベニの名前を付けることとした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エスパース・レオポルド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|