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エディ・パーキンス(Eddie Perkins、1937年3月3日 - 2012年5月10日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。第12代及び第15代世界ジュニアウェルター級王者。 == 人物 == 1937年3月3日、アメリカ合衆国ミシシッピ州クラークスデール出身。 1956年12月27日に、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキーでの対ノーマン・ジョンソン戦(6回戦)でプロデビュー(6回判定負け)。プロ初勝利は1957年4月17日、イリノイ州シカゴでの対ジェリー・ジョーダン戦(4回判定勝ち)。 その後は順調にキャリアを重ねるが、ローカルタイトルに挑戦する機会がないまま、1961年6月12日にベネズエラ・カラカスで()とノンタイトル10回戦に判定勝ちしたことが認められて、その年の10月21日にイタリア・ミラノで世界ジュニアウェルター級王者:()に挑戦。初の世界戦は15ラウンドを戦って69-70、71-71、71-69と三者三様のドロー判定で王座獲得に失敗。 その後2戦置いて、1962年9月14日に再び敵地ミラノでデュリオ・ロイに再挑戦し、15回判定勝ちで初の世界王座獲得を果たす。しかし3ヶ月後の12月15日にロイとのリターンマッチに15回判定で敗れて王座を陥落した。 1963年6月15日、フィリピン・マニラで()に挑戦、15回判定勝ちで王座返り咲きを果たす。王座初防衛戦で日本へ来襲、1964年1月4日、蔵前国技館で高橋美徳(三迫ボクシングジム)の挑戦を受け、13回1分33秒KO勝ちで高橋を倒して初防衛、4月18日にはジャマイカ・キングストンでベニー・グラント()に判定勝ちして2度目の防衛に成功した。しかし、1965年1月18日にかつて対戦したカルロス・モロチョ・エルナンデスに15回判定負けし、王座を陥落。その後世界王座再挑戦の機会はなかった。 パーキンスは世界王座陥落後も現役を続けた。日本では辻本英守、ライオン古山、龍反町と対戦してそれぞれ勝ち、格の違いを示したり、ホセ・ナポレス、ニコリノ・ローチェ、アンヘル・エスパダなど後の世界王者と拳を交えた。世界五大陸の23か国45都市で戦い、母国である米国での試合の多くは相手のホームで行い、『リングの親善大使』という異名が付けられている〔前田衷 出でよ、「日本のパーキンス」 boxing.jp 2003年頃〕。 1974年11月11日、来日して辻本章次に10回戦で判定負け、これは日本選手に対する唯一の黒星である。 1975年5月30日、フランツ・サンドル()に8回判定で敗れたのを最後にリングを去った。 2006年には世界ボクシング殿堂に顕彰された。 晩年は糖尿病や認知症に悩まされていた。2012年5月10日、シカゴの自宅で死去〔Ex-champ Eddie Perkins dies ESPN Boxing 2012-5-11〕〔Former junior welterweight champ Eddie Perkins passes away at age 75 The Ring 2012-5-11〕。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エディ・パーキンス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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