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エドヴァルド・ムンク( (, 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。表現主義的な作風の画家として知られる。また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。 == 生涯 == === 子供時代 === エドヴァルド・ムンクは、1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県に生まれた。父クリスティアン・ムンク(1817年 - 1889年)は医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年、ラウラ・カトリーネ・ビョルスタと出会い、間もなく結婚した。2人の間には、エドヴァルドの前に、長女ヨハンネ・ソフィーエ(1862年生)が生まれていた〔三木 (1992: 41-42)。〕。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニア(現オスロ)に移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース(1865年生)、次女ラウラ・カトリーネ(1867年生)が生まれた。しかし、母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエ(1868年生)を産んだものの、1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・マリーエがムンク家の世話をすることになった〔三木 (1992: 45-49)。〕。 1875年、一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越したが、その後エドヴァルドが慢性気管支炎を患い、姉ヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に彼女が15歳で亡くなった〔三木 (1992: 54-56)。〕。こうして身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』(1893頃)、『病める子』(1886)といった彼の初期の諸作品では直接のモチーフになっている。自己の個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことがムンクが高く評価されるゆえんである。 エドヴァルドは、通っていた学校を1879年に中退している。この頃から彼は画家になりたいという希望を持っていたが、父の反対に遭い、技師になるため工業学校に通うことになった。しかし、彼はリューマチ熱のため欠席が続き、1880年11月8日、退学した。その日、彼は日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている〔三木 (1992: 59-60)。〕。 それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、彼の日記によれば、1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している〔三木 (1992: 64)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドヴァルド・ムンク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Edvard Munch 」があります。 スポンサード リンク
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