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エドモンド・モレル(Edmund Morel、1840年11月17日 - 1871年11月5日(明治4年9月23日))は、イギリスの鉄道技術者で、お雇い外国人として日本の鉄道導入を指導した。 == 経歴 == 1840年11月17日、イギリス、ロンドンのピカデリー、ノッティング・ヒルにおいて生まれた。キングス・カレッジ・スクールおよびキングス・カレッジ・ロンドンにおいて学んだ。オーストラリアのメルボルンにおいて土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのオタゴ地方の自治体で技術者として5か月、ウェリントン地方の自治体の主任技術者として7か月働いた。1865年5月にイギリス土木学会の準会員に推薦され入会している。この間、1862年2月4日にロンドンにおいてハリエット・ワインダー(Harriett Wynder)と結婚している。 1866年1月から、北ボルネオにあるラブアン島において、石炭輸送用の鉄道建設に当たった。ラブアン島にいつ頃まで滞在していたのかはわかっていない。日本での鉄道導入に際して外債の発行を依頼されたホレーショ・ネルソン・レイ(後にトラブルとなって解約される)と1870年2月21日にセイロン島のガレにおいて会談し、日本へ赴いて鉄道建設の指導をすることになった。日本には夫人を連れて赴任している。1870年4月9日に横浜港に到着した。 イギリス公使ハリー・パークスの推薦があり、その職務への忠実性も評価されたモレルは、建築師長(技師長)に任命された。モレルは早速5月28日に、民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めている。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行い、外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになった。こうしたことから、「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。 しかし、日本到着時には既に肺を患っていたと言うモレルは、1871年(明治4年)休職してインドへの転地療養を願い出る。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え、願い出を許可したが、日本の鉄道の開業を目前にして結核により、1871年11月5日(明治4年旧暦9月23日)、横浜において満30歳で没した。そのおよそ12時間後の11月6日(旧暦9月24日)、ハリエット夫人も神経または呼吸器系の急性疾患で、満25歳で亡くなっている。 モレルの遺志は、建築副役のジョン・ダイアックらに受け継がれ、1872年(明治5年)に日本の鉄道は開業した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドモンド・モレル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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