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エドワード・ジャーマン : ウィキペディア日本語版
エドワード・ジャーマン

サー・エドワード・ジャーマン(Sir Edward German 1862年2月17日 - 1936年11月11日)は、ウェールズ人の家系に生まれたイングランド音楽家作曲家。イングランドの界では、アーサー・サリヴァンを継ぐ者としてその膨大な付随音楽作品がよく知られている。
青年期からヴァイオリンを演奏して町の管弦楽団を率いたジャーマンは同時に作曲も行うようになっていった。王立音楽アカデミーでヴァイオリンの演奏や指導を行うかたわら、1880年代中頃には作曲家としての歩みを開始しており、純音楽とともにライト・オペラを手掛けていた。1888年にはロンドンのグローブ・シアター(Globe Theatre)の音楽監督に就任、この劇場並びにロンドン各地の劇場での多くの公演のために付随音楽を提供して人気を博した。そうした中には1889年の『リチャード三世』、1892年の『ヘンリー八世』、1900年の『ネル・グウィン』などがある。一方で彼は交響曲、管弦楽組曲、交響詩なども作曲しており、歌曲やピアノ曲にも数多くの作品を遺している。そうした中で最も知られるのは、おそらく1904年の『ウェールズ狂詩曲』だろう。
1900年にサリヴァンが死去した後、ジャーマンは彼の遺作オペラである『』の補完に携わった。このオペラが成功したことでジャーマンの元には多くのコミック・オペラの依頼が舞い込むこととなり、そうした縁で生まれた作品には好評を得た1902年の『''Merrie England''』や1907年の『''Tom Jones''』などがある。1903年にはラドヤード・キップリングの詩に曲をつけて『''Just So Song Book''』を完成し、管弦楽曲の作曲も引き続き行った。ジャーマンは1912年以降ほとんど作曲の筆を折ってしまったが、指揮活動は1928年まで継続し、同年にナイトに叙されている。
== 生涯 ==
ジャーマンはジャーマン・エドワード・ジョーンズ(-Jones)としてイングランド、シュロップシャーのホワイトチャーチ(Whitchurch)に生まれた。彼は5人きょうだいの2番目で、姉のルース(Ruth)と1人の弟、2人の妹のメイベル(Mabel)、レイチェル(Rachel)がいた。父のジョン・デイヴィッド・ジョーンズ(John David-)は酒屋を営むとともに自らも醸造主で、教会オルガニストを務めながら地域の会衆派教会のチャペルで説法を行うなどしていた。母のエリザベス(ベスティ)・コックス(Elizabeth (Besty) Cox; 1901年没)は若い女性向けに聖書の講座を開講していた。ジャーマンという名前はウェールズ名のガーモン(Garmon)を英語化したものである〔 〕。両親は彼をジム(Jim)と呼んでいた。ジャーマンは5歳になると父からピアノオルガンの手ほどきを受けるようになる。6歳の時には地域で演奏する少年楽団を組織し、その活動の中でヴァイオリン、作曲、編曲を実地で学んでいった。その後入団した少年合唱団ではアルトを歌い、おじの食料雑貨店で行われる一家の余興に参加してはしばしば姉のルースとともにピアノの連弾や楽しい寸劇を演じるなどした。ルースはジャーマンが15歳の時に命を落としている〔 〕。また、彼は愉快な詩も書いている。
ジャーマンの両親は息子には技能職の適性があると考えており、彼が10代半ばに達すると造船会社の見習いに出させようとした。しかしながら、チェスターの学校における彼の寮生活は重い病によって遅れを生じていたため、見習工になるには遅すぎるとして追い返されてしまった。彼は10代の頃にもうひとつ楽団を組織しており、その五重奏団では自らがヴァイオリンを演奏し、ピアノまたはコントラバスを彼の姉妹が担当、他の3人が一家の友人たちで構成されていた。彼らはジャーマンが編曲した楽曲を演奏した。さらに彼は町の管弦楽団も率いており、地域の村々のホールでアマチュア演劇を演じ、喜劇の歌を歌うなどしていた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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