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エドヴィン・フォン・マントイフェル男爵(、1809年2月24日 – 1885年6月17日)は、プロイセン及びドイツの軍人。 1857年に陸軍省人事局長、1859年に軍事内局局長に就任し、ヴィルヘルム1世の信任を得てプロイセン軍部の最有力者となった。強硬な王権至上主義者であり、政府と衆議院の対立が深まる中で衆議院に対する軍事クーデタを狙っていたが、1865年に宰相ビスマルクと陸相ローンの策動でシュレースヴィヒ総督に左遷されて事実上失脚した。軍人としての最終階級は元帥。 == 経歴 == === 前半生 === 1809年2月24日、マクデブルク高等裁判所長の息子としてドレスデンで生まれた〔1911 Encyclopædia Britannica(1911)〕。マントイフェル家は政治家や軍人を多数輩出した名門貴族だが、エドウィンは貧しい分家の生まれだった〔スタインバーグ(2013) 上巻 p.298〕。従兄のオットー・フォン・マントイフェル(後のプロイセン首相)とともに育てられた〔 1827年にベルリン儀仗騎兵隊に入隊し、1828年に士官となる〔。陸軍大学を卒業後、将軍やアルブレヒト王子の副官となる〔。 1843年に大尉、1848年に少佐に昇進。同年、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の副官となった〔。熱心な王権至上主義者として、国王や、1848年革命で成立した自由主義政府を牽制するために強硬保守派が宮廷内に結成した国王顧問団「」から注目される人材となった〔スタインバーグ(2013) 上巻 p.298〕。 1852年に中佐、1853年には大佐に昇進し、それに伴い第五槍騎兵隊を任され、またウィーンやサンクトペテルブルクに外交使節としても派遣された〔。 1857年に少将に昇進〔。同年2月、陸軍省人事局長に任じられた〔スタインバーグ(2013) 上巻 p.298〕〔前田光夫(1980) p.145〕。 「大元帥(国王)と軍の直接の結合」を強調していたマントイフェルは、1857年10月に国王代理人に就任した軍人的性格を持つ皇太弟ヴィルヘルム王子(後のプロイセン王・ドイツ皇帝)と意気投合した。二人は1858年7月にも国王の軍事に関する勅書について陸軍大臣の副署を必要とするケースを制限する旨の勅令を出すことで陸軍大臣の影響力を弱体化させた〔前田光夫(1980) p.145〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドヴィン・フォン・マントイフェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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