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エド・マーイカ(ボスニア語:Edo Maajka)はボスニア・ヘルツェゴビナのラッパー。1978年12月22日生まれ、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ブルチコ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国ブルチコ行政区)出身。本名エディン・オスミッチ(Edin Osmić)。芸名の「エド・マーイカ」とは、「母エド」(Edo the Mother)の意味。 == 出自 == エド・マーイカことエディン・オスミッチはブルチコで生まれ、同地で小学校を卒業した。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発すると、エディンは祖国ボスニア・ヘルツェゴビナを脱出し、隣国クロアチアへ避難した。彼はザグレブに住み、同地の中等学校で機械工学を学ぶ〔Documentary film "Edo Maajka - Sevdah o rodama"; screenwriter and director: Silvio Mirošničenko, Croatia, 2007〕。紛争が終結した後、エディンは再びボスニア・ヘルツェゴビナに戻り、トゥズラで刑法を学び始めるが、学校を卒業することはなかった〔。 エディン・オスミッチはヒップホップへの興味を深め、15歳のときにMCバトルを始めるようになる。彼はまた幾らかのデモ・テープを自主制作した。このときのビートは自らの口で作り上げたものである。エディンはトゥズラへ行き、Diskordと呼ばれるハードコア・ラップのグループの一員として加わった。グループは後にOdbrana(防衛)と改名されている。グループはやがてトゥズラ、そしてボスニア・ヘルツェゴビナ全域で最も人気のあるグループのひとつへと成長していった。彼らのデモ・シングル「Odbrana '99」(防衛 '99)はブルチコのラジオ局Radio Hitによって「今年のヒット曲」に選出された。 エドはヒップホップ、ラップをこよなく愛し、彼はラジオ局Kameleonに出演し、初めて自らのフリースタイルをラジオで披露した。彼はその後長らくKameleonラジオ局のFM Jamショーにおいて重要な比重を占め続けている。FM Jamは若い才能あるアーティストを集め、ボスニアのラップ・グループDisciplinska Komisija(懲罰委員会)を結成させた。エドはそのメンバーとして加わることになる。 エドはその後1年間の学業生活を続けたが、金銭上の問題により学業を中止した。彼は再びザグレブに赴き、クロアチアのラップ・グループエレメンタル(Elemental)のメンバーでエドの友人であるショットに会った。そこで彼らはエドの初のシングル曲「Minimalni rizik」(最小リスク)、および「Mahir i Alma」をレコーディングした。これらの曲はザグレブのラジオ局Radio 101の番組Blackoutにおいてトップ・ヒットとなり、反応は熱狂的なものであった。「Mahir i Alma」はラジオ局Kameleonの2001年のヒット曲に選ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エド・マーイカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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