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エミリオ・デ・カヴァリエーリ(Emilio de' Cavalieri, 1550年頃 - 1602年3月11日)は、ルネサンス後期のイタリアの作曲家、興業主、オルガニスト、外交官、振付師、ダンサーである。 ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアで活動した他の作曲者たちとともに、カヴァリエーリの作品はバロック音楽の始まりにあたるという評価を受けている。ローマ楽派に属し、モノディに関しては初期の有力な作曲家であった。一般に、最初のオラトリオを書いたのもカヴァリエーリだと言われている。 ==生涯== カヴァリエーリは、ローマの音楽の才のある上流階級の家に生まれた。父親のトマーゾ・デ・カヴァリエーリ(1509年頃 - 1587年)は、ミケランジェロの親友ないし愛人だった。おそらくローマで音楽の勉強をした後に、1578年から1584年にかけて、オルガニストおよび音楽監督として働いた。ローマでは、もっぱら四旬節のオラトリオの興業主をやっていた。ローマにいる間に、カヴァリエーリはフェルディナンド1世・デ・メディチ枢機卿と関係を持つにいたった。 1587年、フェルディナンド1世はトスカーナ大公だった兄の急死で、メディチ家当主の地位を相続した。1588年、フェルディナンド1世は、カヴァリエーリを美術家・工芸家・音楽家の監督として、フィレンツェに連れて行った。カヴァリエーリは、メディチ家が催す結婚式などの行事で上演される、豪華な幕間劇(インテルメディオ)の進行役を勤めた。幕間劇は、カメラータの創設者にしてパトロンだったジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵と共同で作っていた。 1589年5月、フェルディナンド1世とクリスティーナ・ディ・ロレーナの結婚披露宴で、6つの幕間劇を持つ、ジローラモ・バルガリ台本の『ラ・ペッレグリーナ』が上演されることになった。6つめの幕間劇の1曲めは、最初バルディの作曲したものだったが、実際の上演の際には、カヴァリエーリの『大公のアリア』に基づくヴィルトゥオーソ的な曲に置き換えられた。『大公のアリア』はその後、ヨーロッパ中で流行して、ピーター・フィリップス ''Peter Philips'' 、スウェーリンク、バンキエリといった作曲者たちが、編曲したり、変奏曲を作ったりした。そこで使われたモノディは、その少し前にカメラータの同人の間で萌芽したものだが、カヴァリエーリはその同人ではなく、もしかしたらバルディからアイディアを得たのかも知れない。あるいは、カメラータの同人で、初期のモノディ作曲家としては重要かつ強い影響力のあったジュリオ・カッチーニと競い合って開発したのかも知れない。 1590年代、カヴァリエーリはまだフィレンツェにいて、いくつかのパストラーレ(牧歌劇。半分が劇のオペラの前身。舞台はその国その国に移されるが。共通の登場人物として男女の羊飼いたちが出てくる)を作っていた。音楽活動に加えて、カヴァリエーリは当時外交官でもあり、教皇政策の手伝いをしていた。たとえば、メディチ家を支持するはずのインノケンティウス9世ならびにクレメンス8世のローマ教皇選挙では、鍵になる枢機卿たちを買収した。 外交官としてローマに行くこともたびたびあり、その時は音楽家としても活動した。有名な『魂と肉体の劇』の初演は、1600年2月のことである。この曲は一般に、歴史上最初のオラトリオととらえられている。記録によると、この曲はその年に2度、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会に隣接するオラトリオ・デ・フィリッピーニ(フィリッピーニ祈祷所)で上演され、35人の枢機卿たちがそれを観賞したらしい。 1600年、カヴァリエーリは、ヤコポ・ペーリ作曲の歴史上最初のオペラ『エウリディーチェ』(オッターヴィオ・リヌッチーニ台本)を上演した。このオペラはフランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚披露宴のための出し物の一つだった。カヴァリエーリにとって不幸だったのは、披露宴のメインイベントの『チェファロの強奪』の制作を、ジュリオ・カッチーニに奪われて、何もできなかったことである。カヴァリエーリは怒ってフィレンツェを離れ、二度と戻ってくることはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エミリオ・デ・カヴァリエーリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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