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エミール・オルリック エミール・オルリック(Emil Orlik、1870年7月21日‐1932年9月28日)はオーストリア国籍の版画家。 == 来歴 == 1870年、オーストリア・ハンガリー帝国(現在のチェコ)、プラハの裕福な仕立屋に生まれる。1889年から1891年にはハインリッヒ・クニールの私立絵画学校で美術を学び、その後、1891年から1893年、ミュンヘン美術学校では、ドイツの伝統的美術について、ヴィルヘルム・フォン・リンデンシュミッツ及びヨハン・レオンハルト・ラーブの元で学んだ。この時、日本の浮世絵に憧れを抱きながらリトグラフやエッチングなどの版画制作を行っていた。1894年、一旦、プラハに戻り、詩人リルケと親交を結んでいる。1897年にはオランダ、フランスへ旅行し、パリでは、フェリックス・ヴァロットンと知り合いになり、翌1898年、イギリスに旅行し、版画家ウィルアム・ニコルソンと連絡を取り合った。1899年、ウィーン分離派の会員に選出されている。 1900年4月、木版画の技術を学ぶため日本へ来訪、ガイドも伴わずに日光、鎌倉、箱根、京都のほか、会津若松や赤倉などに足を伸ばしている。この間、絵師、彫師、摺師に師事して、約10ヶ月にわたって浮世絵の技術を習得し〔浮世絵大事典、国際浮世絵学会編、東京堂出版、2008年〕、他方、フェノロサのもとを浮世絵コレクションを見せてもらうため訪問、狩野派の絵師狩野友信から日本画の筆法を学んだ。こうして身につけた木版技術を、前年の1899年に来日していたヘレン・ハイドに教えている。同年9月には第5回白馬会展に木版画「肖像」など全16点を出品した。1901年制作の木版画「日本の絵師」は顎鬚を生やした狩野友信をモデルにしている。オルリックは日本の版画を見て多大な影響を受け、自刻の多色摺り木版画を制作し始める。また、石版画・エッチングなども制作した。東京風景の作品を多く残しており、後に帰国してから1904年に版画集『日本便り』を刊行、アトリエをウィーンに移している。この時、同時に浮世絵、根付などの日本の美術品を大量に購入している。1901年に木版画「日本の旅人」、「日本の絵師」、「日本の彫師」、「日本の摺師」を発表し、同年1月、ウィーンに向け出発し、2月、一旦帰国する。この「日本の旅人」などは、日本の伝統技法を用いた作品であった。4月にはプラハへ戻り、ベルリンやウィーンなどにおいて講演会を開いたりして木版画の普及に努めた。1902年開催のウィーン分離派展に、日本を主題とした16点の木版画を出品した。日本で出会ったラフカディオ・ハーンの著作5冊を翻訳し、その挿絵を描いて出版している。1905年クリムトらとともにウィーン分離派を脱退、ベルリンへ移ってベルリン王立芸術工芸美術館の教授となり、版画と装丁を指導した。その後、1912年、再び極東へ旅に出た際、日本にもたち寄っている。1932年、ベルリンに滞在している時、心臓麻痺で急死した。 オルリックは1900年10月刊行の『明星』第7号に「ハリネズミの蔵書票」など4点の蔵書票を掲載、日本に初めて蔵書票を紹介した人物として知られている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エミール・オルリック」の詳細全文を読む
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