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エムス電報事件(エムスでんぽうじけん)は、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクが、同国国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表した事件である。 当時のスペイン王位継承問題に端を発するもので、普仏戦争の直接の原因となった。 == 経過 == === スペイン王位継承問題 === 1868年9月、スペインで非民主的な当時の政権に対し、フアン・プリム将軍がカディスで武装蜂起すると、政権への不満は各地の蜂起を促し、革命は全土に波及した。1865年に王室財産の不正利用が明らかになった女王イサベル2世は軍隊の支持も失い、第二帝政下のフランスへと亡命した。 その後スペインでは、1869年1月に初の普通選挙が実施され、同年6月に憲法が発布されたが、その中で革命後の政体は立憲君主制に定められた。革命後も各地で混乱が続き、共和主義者による蜂起も発生したため、新政府にとって新国王の選出は体制安定のための緊急課題となった。 1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲ったが、スペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生した。この継承候補者として、ホーエンツォレルン家の本家筋〔本拠シュヴァーベンから離れて独立しブランデンブルクに落ち着いたプロイセン王家が厳密には分家であるがこの点は本格的な歴史書でも誤っていることが多い〕で宗教改革後もカトリックに留まっていたホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家のレオポルトの名前が挙がり、プリムやビスマルクもこれを推薦した。これに対し、フランスは自国がホーエンツォレルン家の王を戴く国家に挟まれることを危惧し、プロイセン王ヴィルヘルム1世に翻意を求めた。ヴィルヘルムはもともと執着なく、レオポルト自身気乗りがしていなかったこともあってプロイセン側が折れ、7月12日にレオポルトは正式に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エムス電報事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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