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エルジン・ベイラー : ウィキペディア日本語版
エルジン・ベイラー

エルジン・ガイ・ベイラー(Elgin Gay Baylor、1934年9月16日 -)はアフリカ系アメリカ人の元バスケットボール選手。ワシントンD.C.出身。身長196cm、体重102kg。1960年代、アメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAの名門、ロサンゼルス・レイカーズで活躍した、史上最高のスモールフォワードの一人と目される往年の名選手である。
シアトル大学でプレーした後、1958年のNBAドラフトで全体1位指名を受けてレイカーズに入団。以後、新人王受賞、オールNBA1stチーム選出10回、NBAオールスターゲーム出場11回を誇るリーグを代表する選手として活躍した。彼とジェリー・ウェストを擁したレイカーズは強豪として60年代を過ごしたが、一方で8回進出したNBAファイナルでは尽くボストン・セルティックスの前に敗れており、ベイラーは1971年に現役から引退するまで一度も優勝を経験しなかった不運の選手としても知られている。しかしながら得点とリバウンドに長け、ことその身体能力を活かしたアクロバティックなプレーは、後のジュリアス・アービングマイケル・ジョーダンらにも多大な影響をもたらし、ひいてはバスケットという競技そのものを大きく飛躍させたとして彼の業績は高く評価されている。1977年には殿堂入りを果たし、背番号「22」はレイカーズの永久欠番に指定され、NBA35周年NBA50周年オールタイムチームにも名を連ねた。
引退後は1974年からニューオーリンズ・ジャズのコーチ陣に加わり、その後ヘッドコーチとして1979年まで同チーム指揮した。その後1986年から2008年の22年間に渡ってロサンゼルス・クリッパーズゼネラルマネージャーを務めた。
== 経歴概観 ==

=== 生い立ち ===
エルジン・ガイ・ベイラーは1934年、ワシントンD.C.の貧しい家庭に生まれた。人種隔離政策が敷かれていた1930年代当時のアメリカの首都では、公共のプレーグラウンドでもアフリカ系アメリカ人の立入が厳しく制限されていたため、ベイラーがバスケットボールを始めることができたのは10代になってからだった。サウスウエスト・ボーイズクラブ、ブラウン中学校を経て、フェルプス高校に進学。同校には1952年まで在籍し、1年生時には平均18.5得点、2年生時には平均27.6得点を記録。カートーゾ高校との試合では44得点をあげている。コート上では華やかな成績を収めていたベイラーだが、学業面では順調とは言い難く、1952年にフェルプス高校を中退。家具店で働く傍ら、地域のレクリエーション・リーグでバスケットをプレーした。1953年、新設したスピンガーン高校に編入。6フィート5インチ(約196cm)、190ポンド(約86kg)の逞しい青年に成長した姿で再び高校バスケットのコートに現れたベイラーは、黒人としては初めてオール・メトロポリタンチームに選出され、さらに地区の年間最優秀選手にあたるSSAリビングストーントロフィーを受賞した。ベイラーはインターハイ2部リーグの8試合で平均36.1得点をあげ、また1954年2月3日に行われた古巣のフェルプス高校との試合では彼の得点力が爆発。前半だけで31得点をあげ、後半には4ファウルを犯し、あとファウル一つで退場という状況の中でさらに32得点を追加。最終的にはコロンビア特別区新記録となる63得点を記録した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エルジン・ベイラー」の詳細全文を読む



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