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エルギン伯爵(エルギンはくしゃく、 )は、イギリスの伯爵位。イングランド・スコットランド合同前に創設されたスコットランド貴族である。1633年6月21日に第3代キンロス卿トマス・ブルースが受爵したことに始まる。 現在、エルギン伯爵はキンロスのブルース卿(; 1608年創設)、キンカーディン伯爵(; 1643年創設)、トリーのブルース卿(; 1647年創設)、スコットランドにおけるエルギンのエルギン男爵(; 1849年創設)を保持している。前三者はスコットランド貴族であり、最後は連合王国貴族である。 またスコットランドの氏族であるブルース氏族の氏族長を世襲している。 エルギン伯爵家の邸宅はスコットランド・ダンファームリンから3マイル南西にあるブルームホール・ハウス()である。 == 歴史 == ブルース氏族はファイフのに起源を持つスコットランドの氏族で、中世にはロバート1世・デイヴィッド2世父子の二人のスコットランド王を輩出している。 スコットランドの判事・法律家であったは、スコットランド王ジェイムズ6世によって1602年にキンロス卿に、1608年にはキンロスのブルース卿にそれぞれ叙された(ともにスコットランド貴族)。彼が死去すると長男のエドワードが、次いでその弟のトマスが襲爵した。 第3代キンロス卿となったトマスは1633年6月21日にエルギン伯爵に、1641年7月30日にホールトンのブルース男爵()に叙され、2代伯となったその息子のは1662年に・カウンティ・オブ・ベッドフォードにおけるアンプトヒルのブルース子爵()・カウンティ・オブ・ヨークにおけるスケルトンのブルース男爵()にも叙された(エルギン伯爵以外はすべてイングランド貴族)。以後これらの爵位は4代伯が死去するまで同一人によって保持された。 3代伯となったのは2代伯の唯一の成人した男子であるで、1685年に襲爵した。彼は名誉革命に際してオラニエ公ヴィレム3世のイングランド上陸後もジェイムズ2世を支持し続けたわずか四人の貴族の一人で、ジェイムズ2世のロンドン脱出にも同行した。さらにジェイムズ2世の王位奪還計画を立てたとして1696年にはロンドン塔に収監された。 3代伯が死去すると、その息子のチャールズが4代伯となった。彼は加えて1746年4月17日にカウンティ・オブ・ウィルトにおけるトッテナムのブルース男爵(; グレートブリテン貴族)に叙された。 1747年に4代伯は歿したが、彼には娘しかいなかった。そのためアイレスバリー伯爵とその従属称号およびホールトンのブルース男爵は断絶、キンロス卿は保持者不詳()となったが、エルギン伯爵は遠戚の第9代キンカーディン伯爵が、トッテナムのブルース男爵は4代伯の妹の子であるが相続した。なおキンロス卿は1868年に貴族院によって4代伯の娘の子である第3代シャンドス公爵ジェイムズ・ブリッジズが正当(; デ・ジュリ)な相続人であったと決定され、現在はその女系子孫が保持している。 5代伯は1771年5月14日に死去し、わずか7歳で襲爵した息子のウィリアムも同年7月15日に死去したため、その弟のが5歳で7代伯となった。彼は長じて外交官となり、特に在オスマン帝国イギリス大使としてイスタンブルに赴任した際にオスマン帝国領であったギリシャに残る古代ギリシアの建築や彫刻を調査し、パルテノン神殿の彫刻を削り取ってイギリスへ送ったことで知られる。これは現在エルギン・マーブルと呼ばれて大英博物館に収蔵展示されているが、ギリシャ政府から返還を要求されている。 7代伯が死去すると、その息子であるジェイムズが8代伯となった。彼は1842年から1846年までジャマイカの総督を、1847年から1854年までカナダの総督を務めた。清とのアロー戦争においては特派大使(; 高等弁務官)として現地へ派遣され、天津条約(1858年)・北京条約(1860年)を締結した。またこの間に幕末の日本を訪問して日英修好通商条約(1858年)を締結したため、日本で「エルギン卿」あるいは「エルギン伯」といった場合彼を指すことが多い。その後1861年にインドの総督(副王)へ任じられ、1863年に死去するまでその職にあった。 9代伯となったヴィクターは8代伯の息子である。彼も政治家で、1894年から1899年までインド副王を務め、1905年には自由党のヘンリー・キャンベル=バナマン内閣にとして入閣した。 9代伯が死去すると、その息子のエドワードが10代伯となった。現在のエルギン伯爵は10代伯の息子であるアンドルーで、1968年に襲爵した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルギン伯爵」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Earl of Elgin 」があります。 スポンサード リンク
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